修行(雲水の生活)

撥叢参玄
はっそうさんげん

 撥叢参玄。草を払い、玄妙な仏法に参ずることで、行脚(あんぎゃ)ともいう。禅の修行のために旅に出るという意味である。それは単なる旅と違い、心地の風光、すなわち見性(けんしょう)が目的の旅である。
 「ナズナやツリガネ草を人参とまちがえるな」という古い語がある。行脚僧は何を求めて、誰をどこへたずねるかの出発点がたいせつである。慈味あふれる明眼(みょうげん)の師にあうとき、その法味を充分に吸収して、お悟りという到着駅に立つことができる。ナズナを食うか、人参を味わうかは、かかってその出発点の願心にある。
 弟子入りして住みなれた寺をあとに、ひとり旅のできるまで長年撫育(ぶいく)された師父に別れを告げるときはきた。大志大願を抱く雲水もまた人の子。美しく剃った頭であっても、うしろ髪をひかれる思いである。
 その旅装は、墨染の衣に白地の脚絆(きゃはん)。なかなか粋(いき)な姿である。師から与えられた袈裟(けさ)、持鉢(じはつ・食事用の重ね椀)、剃刀(かみそり)、講本(多くは臨済録〈りんざいろく〉や禅関策進〈ぜんかんさくしん〉)は袈裟文庫(けさぶんこ・縦34cm、横25cm)という小さな箱に納めるか、あるいはくくりつけられる。若干の着替えに合羽(かっぱ)などが前後に振り分けにされる。そして網代笠(あじろがさ)を手に、弟弟子や縁者に見送られ、無言で深々と一礼して出発する。
 このように、修行僧の荷物はいたって少ない。人間的な所有欲への無言の抵抗であるかのごとく、必要最小限に簡素化され、あるだけの荷物はすべて身につけられてしまう。だから雲水はでんでん虫(蝸牛〈かたつむり〉)にたとえられさえするのである。
 禅の先徳は、集めることは苦しみの初めであるといわれ、すり鉢ひとつさえあれば味噌も摺れるし、褌(ふんどし)も洗えると、無駄のない簡素な生活に徹したものである。