法 話

幸せの提供者
書き下ろし

愛媛県 ・三寳寺住職  福山宗徳

 春から初夏に向けて四国の山々は緑鮮やか、あぜ道にはお遍路さんが連なります。丁度この頃、大安の日に札所を巡ると、結婚式を控えた花嫁の「前撮り」に遭遇することがあります。
 6月といえばジューンブライド。白無垢姿の花嫁は、札所境内の荘厳な雰囲気と合わさり、美しさと清らかさが一層引き立っています。その空気に触れたお遍路さんは、疲れた身体にひと時の安らぎを与えられるのです。
 「幸せなる人」は、自分ばかりか同時に周りの人まで救ってくれるのかも知れません。

 有名な金子みすゞさんの詩に「花屋の爺さん」があります。

花屋の爺さん花売りに、お花は町でみな売れた。
花屋の爺さんさびしいな、育てたお花がみな売れた。
花屋の爺さん日が暮れりゃ、ぽっつり一人で小舎のなか。
花屋の爺さん夢に見る、売ったお花のしあわせを。

myoshini1606a.jpg 花屋のお爺さんが丹精込めて育てた花。当然、思い入れもあるでしょう。売れた花がこの先どうなるのか、どことなく寂しげでありながら、花の幸せを心から願うお爺さんの姿が眼に浮かびます。
 お爺さんの夢見る「幸せ」、それは花を買った人がその花によって喜びを感じていくことなのでしょう。それが花にとっても幸せなのだと、おそらくお爺さんは感じているからです。
 
 私はこの詩に触れるとき、育てた「お花」が「花嫁(娘)」のように感じてならないのです。
 夫たる人の幸せは、大事に育てた娘によって生じるもの。そしてその幸せはそのまま娘の幸せでもあり、更には自分の幸せでもあるのだと......。
 たった一人の「幸せ」は、同時に多くの人の「幸せ」でもあるのでしょう。
 もしかしたら、お爺さんが売っていたのは花ではなくて、「幸せ」そのものだったのかも知れません。
 
 意外にも、幸せの提供者のことを、仏教では「仏さま」と呼びます。花屋のお爺さん同様、私たちは皆、誰かに幸福を授ける仏さまばかりなのです。

 禅は、自分の中に仏のこころ(仏性)が宿ると説きます。そしてその仏性に目覚めることを見性成仏といいます。ただし、仏に成りたい、悟りを開きたいと追い求めてなれるものではありません。修行を積んで「仏に成った」のではなくて、私たちは皆「本来仏だった」ことに気付かなければならないのです。

 きっと「幸せ」もそうなのでしょう。「幸せになりたい」と願ってもなれない筈です。元々ずっと「幸せに生かされていた」からこそ、機が熟して初めて気付いていけるのではないでしょうか。
 花嫁さんにそう気付かせてくれたのが夫たる人だったら、こんなに素敵な出逢いはありません。
 その粋な計らいは、もしかしたら私たちに潜んだ「幸せの提供者」なる、仏さまの仕業なのかも知れません。
 
 私たちは皆、既に幸せに生かされています。そう信じれば、あなたの目の前にいる人だって、きっと喜んでくれている筈です。だってそうでしょう。あなたの幸せは皆の幸せなのですから......。