法 話

初春の味
書き下ろし

香川県 ・實相寺住職  山本文匡

小豆がゆ.jpg 古来、小正月には小豆粥を食べる風習があり、妙心寺の塔頭でも毎年行われています。健康で長生きしたい、長生きしないまでも寝込んで家族に迷惑を掛けたくは無い、というのは誰もが願うところでありますが、現代のように医療が発達していなかった時代には、今以上にそうした願いが切実だったことでしょう。

 だからこそ一年の健康を願って食べる小豆粥など、かつては季節毎の伝統行事がありました。それらの根底に流れているのは家族の健康を願う祈りの心であり、大自然の恵みや神仏の加護など、様々な「おかげさま」への感謝の心ではなかったかと思います。

 ところが現代は科学技術が発達し、私達の暮らしも随分と豊かになりました。その一方で小豆粥に限らず、家族の健康や長寿を願う行事はだんだんと廃れてきた様な気も致します。しかし昨今の相次ぐ自然災害を鑑みますと、大自然の前では人間は非力です。今一度豊かさが当たり前の生活を見直す必要があるのではないでしょうか。

 さて小豆粥はよく初春の味と言われますが、初春の味とは一体どんな味でしょうか?そんなにハッキリした美味しさではないですね。例えば雪の下から芽を出したふきのとうとか、地味な味のイメージがあります。

 実は初春とは未だ春になっていない頃ですから冬なんです。厳寒の中で微かな春の兆しを感じる味、これが初春の味じゃないかと思います。ということは、初春の味は冬の寒さや厳しさを知らない人には味わうことが出来ない味です。年がら年中、春真っ盛りとか、或いは真夏のような陽気で過ごしている人には、初春の味を味わうことは出来ないのです。

 これは人生も同様だと思うのです。私達の人生にも春夏秋冬、移ろいというものがあります。これを仏教的に言えば「無常」と言いますが、中国唐代の詩人、劉希夷の詩の一節に、大変有名な「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」という句があります。春になれば花は同じ様に咲くけれども、去年居た人が今年はもう居ない、と言うことです。

 この「今という時間はもう二度と無いかけがえのないものである」という気づきが、人生を豊かに、味わい深いものにしてくれるのではないでしょうか。

 皆様もそれぞれに自分の人生を振り返ってみると、良い時もあれば悪い時もあり、様々なご苦労を重ねてこられたことと思います。ひょっとしたら今も悩みは尽きないのかも知れません。

 それでも今年もお正月を迎えることが出来ました。先ずはそのことの喜びを、是非味わって頂きたいのです。お正月にはあたり前のように、「明けましておめでとうございます」と挨拶しますけれども、何がめでたいのかと言えば、それはお互いに今年も無事にお正月を迎える事が出来たことに他ならないのです。そしてそれはけっしてあたり前のことではありません。

 あれが無い、これが無いと嘆く前に、今あるささやかな幸せに感謝できる心。これが幸せに生きる秘訣です。是非小正月には小豆粥を召し上がって頂き、今年一年を元気に大切にお過ごし頂くことを念願致します。