法 話

左手の親指と四指の間にかけるものは何?
書き下ろし

佐賀県 ・松雲寺住職  柳原好孝

myo_1803a_02.jpg それは数珠です。念珠とも言います。最近使ったのはいつですか?仏壇に向かって合掌した時でしょうか。お墓参りや、法事、通夜、葬儀の時に数珠は必携です。仏前結婚式では、新郎と新婦で指輪交換ならぬ寿珠交換も行なわれます。近年は様々な素材の腕輪念珠を身につけている方もよく目にします。僧侶も数珠を身につけていないと格好がつきません。かくいう私も法事の時にうっかり看経(かんきん)念珠を忘れた時は、覚悟を決めて目立たないようにしています。
 『仏説木槵子経(もくけんしきょう)』によると、お釈迦さまが霊鷲山(りょうじゅせん)に滞在されていた頃に、ハルリ国の使者がお釈迦さまに問われました。「わたしの国は小さい国で、しきりに盗賊に脅かされ、悪病が流行して、国民の困苦は口ではとうてい言い表わすことはできない状況です。国王も心を痛められ国を治めることができません。皆を救うにはどうしたらよろしいでしょうか」と。
 するとお釈迦さまは、「木槵子※1(ムクロジの種子)を百八顆(か)つないで、行住坐臥いつでも手にして、心を込めて三宝(仏・法・僧)の御名(みな)を念じて怠らなかったならば、煩悩による苦しみがなくなり、無上の果徳を得ることができるであろう」とお示しになり、国王が木槵子の念珠を千具作り、身内から分かち与えてそのように行動したところ、その功徳広大であったと讃歎したということが念珠の起源です。
 正式の数珠は玉が百八個あり、お釈迦さまは、人には百八つの煩悩があるといわれました。それを断ちきるために至心に「南無帰依仏・南無帰依法・南無帰依僧」の三宝をとなえながら百八の数珠を爪繰(つまぐ)り数えれば、心の中の塵(ちり)や埃(ほこり)が次第になくなり、清らかな思いが積み重なり、仏さまのご加護がいただけるとされるのです。
 しかし、禅宗における修行道場の雲水(修行僧)は念珠を扱いません。念珠で仏名を数えるのではなく、「出入(しゅつにゅう)の息を以って、念珠となす」(『念仏三昧宝王論』)とあるように、身体を正し、呼吸をゆっくり数えます(数息観)。そして、内なる心を調えて坐禅に専念するからと思われます。言わば念珠にとらわれることなく、出入の息を調えて、心を乱さないようにして体究練磨(たいきゅうれんま)すれば、念珠を用いずとも勝るのが禅の教えです。
 一呼吸、一呼吸ゆっくり深く数えてみませんか。内なる自分の清浄なる心にきっと出会えるはずです。

  磨いたら磨いただけの光あり 根性玉(こんじょうだま)でも何の玉でも
                                  山本玄峰老師

 何の玉でも数珠の玉でも磨けば磨くほど光を放つように、静かに坐り、根性玉※2(根本的な自分の心)を磨き、自身の心を清浄にして輝いてみましょう。しかも、目立たぬように、際立たないように。


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※1 「木槵子」は、羽子板の羽子についている重し、黒い堅い玉。
※2 「根性玉」は「性根玉」と書かれる場合がありますが、山本玄峰老師を看取られた中川球童老師の言葉をもとに「根性玉」を採択しました。