法 話

「令和」の時代へ向けて
書き下ろし

岡山県 ・佛土寺住職  馬場道隆

myo_1907a_link.jpg 「猛暑日」「熱中症」「避暑対策」といった声を多く耳にする季節になりました。毎年少しずつ陽射しが強くなり平均気温が上昇しているように感じるのは、いわゆる「地球温暖化」の表われでしょうか、それとも年齢を重ねるごとに体力や免疫が落ちてきているからでしょうか、それとも「心頭滅却すれば......」ではありませんが気の持ちようが足りないからでしょうか......? 何はともあれ、どうか体調管理には十分気を配り御自愛いただきたいと思います。

 さて、今年5月より「平成」が幕を閉じ「令和」の時代へと移行しました。この「令和」は日本最古の歌集『万葉集』の梅花の歌序文の一節、「時に、初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぐ」からの引用ということで世間に広く知られるところとなりました。私がこの一節から受けた第一印象は「梅花咲く初春の優雅で穏やかな情景」です。もちろん「令和」の時代は自然も人心も華やか穏やかであり続ける時代であってほしいと思います。
 しかし、『万葉集』にはそんな歌ばかりがあるわけではありません。その根幹を成す歌の中には「挽歌」(人の死を悼む歌)もあります。言葉にできない悲しみや声にならない苦しみ、そういった思いを後世に残し伝えるため敢えて言葉や詩歌にして綴ったものもあることを私たちは知っておかなくてはなりません。それは『万葉集』を沢山の言葉を集めて表に出た「葉」と例えるならば、その裏には人々が抱く「種」や「根」といった言葉にならないほどの強い思いが必ずそこにあって今日まで残り伝えられてきた、ということではないでしょうか。

 私たち人間はよくその存在や物事の表面的な部分や自分にとって都合のよい部分だけを切り取り、あたかもその全体を把握し理解してしまったような錯覚に陥ることがあります。その錯覚はともすれば自分にとって満足感や幸福感や優越感を与えてくれるものであるようにも感じるでしょう。ですが、これほど単なる自己満足や自己中心でしかなく、かえってたった一度きりしかないこの人生を浅く無味乾燥なものにし枯れ朽ちらせてしまうものはないのです。
 私たち一人一人も『万葉集』と同じく例えるならば一枚の「葉」としての存在、であるならばその中心や裏には必ず「種」や「根」があり、それを育み続けてこられたからであればこその今日です。この自分に通じている数多の先人方々は決して自己満足や自己中心の生活をするためではなく、そこから先へと未来へと連なっていく「種」や「根」を育むことにその一生をかけて務めてこられた、その確たる「証明」が今を生きる私たち一人一人の存在そのものであることを忘れてはなりません。

 禅語のひとつに「不立文字 教外別伝」があります。「禅」や「悟り」は言葉や文章で表現伝達できないもの、そこには『万葉集』に込められた「種」や「根」のような強い思いが根底に流れているようにも感じます。言葉にならない悲しみや声にできない苦しみ、それはこの世の真理が「諸行無常」である以上、いつの時代であっても変わることなく厳然と存在しています。だからこそ、今この平和で豊かな恵まれた時代に生きていることを、必然当然の如くあたりまえに過ごすのではなく、先人方々の思いを受け継ぎ感動と感謝の気持ちをもって生活することが大切だと思うのです。「令和」という元号に込められた「種」や「根」を決して忘れることなく、今このかけがえのない日々を大切に過ごしさらに次代へ向けて育んでいっていただきたい、そう願います。

―汝等請う其の本を務めよ。~(中略)~誤って葉を摘み枝を尋ぬること莫(な)くんば好し。―

『無相大師遺誡』