愛媛県 ・三寳寺住職 福山宗徳 |
秋も深まり、山々は紅葉に彩ります。赤や黄色は水面にも映え、眺める人のこころに安らぎを与えます。思わず時間を忘れ別天地を味わうとき、その境地を「壺中日月長し」と禅は讃えます。 私たちには生まれながらに清浄なこころが具わり、喩えて「鏡のようなこころ」と呼ばれます。曇りひとつない鏡は、映ったものをありのままに映し出します。けれども、いつの間にかこころは執着に覆われて曇ってしまいます。 そういえば、「悟りとは、自然と自我との融合」と道中に記したのが、俳人・種田山頭火でありました。 昭和十年の道中記句集『柿の葉』の冒頭には、「この一年間に於いて私は十年老いたことを感じる」とあります。 芭蕉は芭蕉、良寛は良寛である。芭蕉にならうとしても芭蕉にはなりきれないし、良寛の真似をしたところで初まらない。私は私である。山頭火は山頭火である。芭蕉にならうとは思はないし、また、なれるものでもない。良寛でないものが良寛らしく装ふことは良寛を汚し、同時に自分を害ふ。私は山頭火になりきればよろしいのである。自分を自分の自分として活かせば、それが私の道である。 山頭火は、自分の見える世界を、自分の見方で歩いたのだろうと思います。ただ只ありのままに世界を観じ、自然との融合を試みたのでしょう。 実は壺中とは、決して悟りの世界などではなく、今自分が立っている足元を指します。苦しみの絶えないこの世界は、こころ次第で桃源郷に変じることを教えてくれているのです。 |