法 話

臨済禅師のこころシリーズ〔5〕
「こころに向き合う」
書き下ろし

茨城県 ・向上庵副住職  三ツ井修司

 臨済宗の宗祖、臨済義玄禅師の教えは『臨済録』という語録に記されています。私達はその教えを理解し実践することで「こころに向き合う」ことができます。『臨済録』には、

赤肉団上に一無位の真人あり 常に汝等諸人の面門より出入す
未だ証拠せざる者は 看よ看よ

 という一節があります。
 山田無文老師の『無文全集 第五巻 臨済録』(禅文化研究所)では

赤肉団上に一無位の真人あり
肉団はお互いの肉体のことだ。無位の真人有りだ。何とも相場のつけようのない、価値判断のつけようのない、一人のまことの人間、真人がおる。仏がある。皆の体の中に一人一人、無位の真人という、生まれたまま、そのままで結構じゃという立派な主体性がある。

常に汝等諸人の面門より出入す

その主人公が、その主体性が皆の面門より、五感を通して出たり入ったりしておる。外へ飛び出して、きれいな花となって咲きもするし、美しい鳥となってさえずりもする。虫が鳴けば虫の中に真人がおる。山を見れば山が真人だ。川を見れば川が真人だ。全宇宙、お互いの感覚の届くところはどこへでも行く。主観も客観もぶち抜いて、そこに一人の真人がはたらくのである。こういう立派な真人が、仏が、皆の体の中にちゃんと一人ずつござるのじゃ。

未だ証拠せざる者は、看よ、看よ

この無位の真人を見ていくのが禅というものじゃ。


 と解説しています。
 無文老師が説かれたように、私達には生まれながらに「一無位の真人」という主体性が備わっています。その仏の心を自ら発見するが臨済禅の根本です。それは、その時その場で精一杯生きる己の「こころに向き合う」ということです。

rengo1605a.jpg 平成27年5月11日TBS朝の情報番組で紹介されたお話です。
 島根県出雲市では2007年から毎年5月5日のこどもの日に花火大会が開催されています。花火師の多々納恒宏さんは数年前、ある病院の看護師長から「病院には長期にわたり闘病し、外出もままならず、明日の命さえ危うい子供がたくさんいる」と聞かされ、「それなら病室から見える場所で、花火をあげよう」と決意したそうです。花火を見る子供たちは、とても楽しそうな笑顔を見せてくれました。多々納さんは「花火を見た瞬間だけでも、病の痛みや苦しみを忘れることが出来ればと思う」と話されていました。

 その花火大会は、「子供達のために今、自分ができることをしてあげたい」という己の心に向き合っている人達の「一無位の真人」だと、私は感じました。そして、無文老師が語られたように、花火の美しさに魅せられ、例え一時でも病の痛みや苦しみから解放され喜ぶ子供たちは、まさに真人そのものでした。多々納さんの花火と子供たちの笑顔には、生きる喜びが満ち溢れていました。

 臨済宗が最も大切にしていることは、人の「こころ」です。目に見えない心をあの手この手で理解して生きようとするのが臨済宗です。迷いや悩みの原因は、すべて自分の内側にあると自覚して、なぜ人は苦しむのか、その原因はなんであるのか、生きるとはどういうことなのか、人間とは何か、自分の本当の心とは何か、という自己本来の「心に向き合う」ことなのです。

 常にどう生きるかを意識し、自らの内側に臨済禅師と相違ない「一無位の真人」を発見していくのです。つまり、私達ひとりひとりが臨済禅師そのものであるということなのです。

 自己の主体性に目覚め、今あるものの尊さを知り感謝する。己の本当の「こころに向き合う」こと、それが「禅―いまを生きる」ということです。