法 話

白隠禅師のこころシリーズ〔7〕
「四番目の猿」
書き下ろし

静岡県 ・東福寺住職  伊藤弘陽

 平成28年は申(さる)年でしたが、猿といえば白隠禅師の著作『八重葎(やえむぐら)』巻之二にある和歌が思い出されます。

  見ざる聞かざる云(い)わざる猿の三つよりもかまわざるこそまざる猿なり

 この和歌は慈恵大師の「七猿歌」から引用されたものと思われますが、禅の教えがわかりやすく説かれた和歌といえるでしょう。
 「見ざる」「聞かざる」「云わざる」といえば「自分に都合の悪いこと、相手の欠点や過ちを、見ない、聞かない、言わない」という意味だといわれています。
 私たちは普段から、自分に都合の悪いことからは目を背け、相手の欠点や過ちはどうしても目についてしまいます。でも、それではいけないというのです。
 この三匹の猿だけでもありがたい教えですが、白隠禅師はさらに四番目の「かまわざる」こそ優れた教えであると紹介しています。「かまわざる」とは「とらわれない」ということです。「とらわれない」とは、自分勝手な考えや行動を慎み、他人に対しては寛大であることではないでしょうか。

rengo1612a.jpg 徳川家康が岡崎城にいたころのお話です。岡崎城では朝廷からの勅使や他国の要人をもてなすために、食材として鯉を飼っていました。ある時、鈴木久三郎という侍が、「家康公からお許しが出た」と言って、大切な鯉や織田信長から拝領した上等なお酒を勝手に持ち出して皆に振る舞ってしまいました。
 当然、家康は烈火の如く怒り、自ら長刀を手に久三郎を呼びつけます。すると久三郎は抵抗することもなく、家康をにらみつけると「魚や鳥を人間に替えてもよいのですか。そんなお心では天下をお取りになることもかなわないでしょう。私を成敗されたいのならばどうぞ」と凄みました。これには家康も心を打たれてしまいます。冷静になって考えてみると、最近自分の狩り場で鳥や魚を捕った足軽たちを牢屋に入れてあったのを思い出したのです。
 目先の小事にとらわれてばかりでは大切なことを見落としてしまいます。何が自分にとって一番大切なことなのか。「とらわれざる」という四番目の猿の視点から自分自身を見つめ直すように、白隠禅師はこの和歌を紹介されたのでしょう。

 最近の世相を見ていると実に身勝手な人たちによる悲惨な事件や事故が後を絶ちません。四番目の猿の教えは、白隠禅師の250年遠諱を迎えた今日でも必要とされているのではないでしょうか。