法 話

臨済禅師のこころシリーズ〔10〕
『臨済禅師が説く生きがいのある人生』
書き下ろし

神奈川県 ・東学寺住職  笠 龍桂

 「禅」を辞書で調べると、「心を安定させ、統一すること。また、そのことによって宗教的叡智(えいち)に達しようとする修行法」等々の解説が出てきます。また、この「禅」の類義語として「三昧(さんまい)」を挙げています。三昧とは、心を一つの対象に集中することで、例えば「読書三昧」「温泉三昧」などと表現し、その三昧の王様ともいえる表記に「三昧王三昧(さんまいおうざんまい)」という言葉があります。その「三昧王三昧」をさらに調べると、「坐禅三昧のこと」とあります。なるほど、数ある三昧の境地の中で、その三昧の王様は「坐禅三昧」であることに感心しました。

 現代人はこのような心を一つのことに集中する「三昧」の境地になることが少ないように思います。その原因の一端に携帯電話のメールチェックがあります。
 イギリスのラフバラー大学のジャクソン教授が、30人の国家公務員を対象に、血圧、心拍数、ストレスホルモンの数値の変化を、1日の中で調査したところ、メールを読んで返信するまでの過程が最も高い数値を示し、「かなり興奮した状態」であったというのです。現代人、特に中高生の女子では、数分以内にメールをチェックし、返信しないと相手から嫌われるという話を聞いたことがあります。こうなると、授業中や食事中までメールチェックで神経がすり減り、ストレスがたまるような気がします。とても、勉強三昧、食事三昧とはいきません。

 さて、禅の専門道場では、あらゆる場面で「三昧」になることを修行の眼目とします。朝は三時に起床してから読経三昧、坐禅三昧。その後は作務(さむ)三昧に、托鉢三昧とその場その場で一つの物事に集中して修行三昧になりきります。
 そんな僧堂時代に、私が一番「三昧」になりきったのが、作務の薪割(まきわり)でした。当時の僧堂では晩秋から初冬にかけて飯炊(めした)きや風呂焚(た)き用の薪を雲水が割るのです。この薪割は、斧を振り下ろすだけの単調な労働ですが、寒い時期に体の芯から温まってきて、いつの間にか薪がうず高く積みあがってくる喜びがあり、薪割三昧になりきって集中すると、とてもやりがいがあり、楽しいものでした。

rengo1704a.jpg 臨済禅師は「随所(ずいしょ)に主となれば、立処(りっしょ)皆な真なり」と言われました。これは、「いついかなる場所でも、何ものにもとらわれず、常に主体性をもって行動すれば、真に生きがいのある人生を生きていける」という意味です。
 残念ながら、現代人は外界のおびただしい数の情報や、先端技術の影響で、とても自分自身の人生に主体性をもって生きているとは言えません。できれば携帯電話に振り回されず、勉強三昧に、食事三昧に、作務三昧や坐禅三昧になる時間をつくってもらいたいものです。
 「禅」とは、特別なものではなく、日常のあらゆる場面で三昧になりきることです。そのことが、真実の生きがいのある人生だと、臨済禅師は説かれるのです。