法 話

一日不作、一日不食
書き下ろし

京都府 ・永明院住職  國友憲昭

rengo1705a.jpg 百丈懐海(ひゃくじょうえかい)禅師の言葉で「一日(いちじつ)作(な)さざれば、一日食(くら)わず」と読みます。ある時、弟子達は百丈和尚が高齢なので体を心配して、畑道具を隠してしまいました。百丈和尚、道具が無ければ畑にも出られず、室内で書物を見ていると、弟子が食事を運んで来ましたが、食べようとしません。翌日もまた同じようにお食べにならない。今度は弟子たちが根負けして「どうして食べていただけないのですか?」と尋ねると、「一日不作、一日不食」と言ったとあります。弟子たちが畑道具を元に戻したのは言うまでもありません。一日畑仕事をしなかった時には、その日は食事を取るに値しないということです。自分が世の中に生かされている戒めであります。一日、仕事に頑張って充実した日には、食事が美味しい、逆に仕事もしないでブラブラしている日は、食が進まない。やはり充実した毎日を送りたいものです。

 お釈迦様が最初に作られた原始仏教においては、律によって「僧侶は布施によってのみ生きよ」とされていますので、労働は一切してはならない、すべての時間を仏教の習得に費やせ、という事です。しかし、中国に渡った仏教は、寺を山の上や人里離れた所に造りましたので、托鉢に行けません。多くの修行僧を抱えているので、自然、畑を作って自活するようになりました。ですからこの教えは、大乗仏教にのみ言えることなのです。

 私の自坊である永明院の先代住職、憲道和尚の知己で、大徳寺の如意庵に立花大亀和尚がおられました。大亀和尚は大徳寺の管長代務者や花園大学の学長を歴任されて、世寿105歳で平成17年にお亡くなりになりました。平成9年に憲道和尚が亡くなってからも、夏と暮れには必ずご挨拶に伺っておりました。それは今でも続いておりますが、ご自坊の如意庵には裏に畑があり、私が訪ねて行きますと、100歳ぐらいまでは、お元気で畑仕事をされていたのが印象的でした。玄関で声を掛けて、どなたも出てこられない時は、大抵裏に廻って畑に行くと、そこで一鍬、一鍬、丁寧に土と会話をされるように過ごされておられました。まさに、「一日不作、一日不食」そのままの生活であった気がいたします。

 大徳寺は天龍寺ができる30年程前、1315年に大燈国師によって創建されました。京都中が火の海になった応仁の乱によって荒廃し、一休和尚によって復興されました。山門も一階部分は一休和尚によって再興され、千利休居士が二階部分を増築しました。これが物議を醸し、最後は切腹に至るわけで、茶道千家流の始祖である茶聖千利休とは大変縁があり、茶道の世界では別格の聖地です。立花大亀和尚も茶道に関わる多くの茶掛けや半切など、書き物をされておりました。お聞きした話ですが、お亡くなりになった時、遺産のほとんどは寄付をされ、ご自身が長年提唱をされておりました「碧厳録提唱」を本にし、多くの前途ある若い僧に無料で配布されました。我々がいつでも勉強できるようにと、ご高配いただいたのだと感謝し、今も活用させていただいております。

 このように禅僧は、「日常底(にちじょうてい)」ということをよく言われます。日々のありのままの姿こそが、禅において一番大切であることから、日々の研鑚を怠ってはいけないということです。日々の積み重ねの中から、やがて花咲く日が訪れるのです。日々の研鑚無くしては、何も生まれてこないでしょう。
 食事が「一日不作、一日不食」であるならば、禅僧としては、一日仏教を学ばなければ、禅僧としての一日は有り得ない「一日不学、一日不成」ではないでしょうか。