法 話

初心
書き下ろし

兵庫県 ・極楽寺副住職  西垣宗諄

 新年度が始まりました。学校でも会社でも活動環境が大きく変わった方もおられることと思います。それと共に新年度を新たな気持ちで迎えられたことでしょう。それは語弊をおそれずに言いますと、善かったことも、悪かったこともすべてひっくるめて「リセット」して新たな気持ちでゼロからまたこの新しい環境で歩んでいくということでもあると思います。よくそのことを「初心に返る」といいますが、では「初心」とはいったいどんな心のことでしょうか。
 「初心」という言葉は室町時代の人である「世阿弥」の「風姿花伝(花伝書)」の中で使われています。世阿弥は能楽を大成した人物ですが、能の上達方法を記したところにこの言葉があります。

是非とも初心忘るべからず
時々の初心忘るべからず
老後の初心忘るべからず


 皆さんの多くがご存じなのは最初の「初心忘るべからず」という部分ではないかと思います。この意味は今では「物事を始めた頃の気持ちを忘れるな」「この日の感動を覚えていなさい」といった意味で使われることが多いのではないでしょうか。しかし、元々の意味は一言で言いますと「未熟だったことを忘れてはいけない」ということです。つまり、上達して気がゆるむことを戒める言葉だということです。何事も始めた頃は未熟で出来ないことばかりですが、だからこそ
一所懸命に上達しようと努力します。ところが、少し出来るようになると未熟だった頃を忘れてあたかも初めから出来たかのように振る舞いがちになります。その気のゆるみから失敗した経験をお持ちの方もあることでしょう。それを戒める言葉なのです。しかし、世阿弥の言葉はそれだけでは終わりません。「時々の」「老後の」というように続いていきます。人の成長に置き換えると「是非とも……」とは幼少期、「時々の……」は青年から壮年にかけて、そして「老後の……」とは老年期のことになります。つまり、だれでも常に未熟なところがあるのでいつも気を緩めずに精進せよということです。
 昨今、子どもに関わる悲惨な事件がメディアで取り上げられることが目につきます。お子さんをお持ちの方は初めて親になった頃のことを覚えておられるでしょうか。大きな喜びはもちろんでしょうが、日々戸惑いやご苦労があり、
一所懸命になっておられたことでしょう。今や立派に子どもを育てられている方もやはり初めから今と同じように出来たわけではないでしょう。その頃は子どもの仕草、言葉一つ一つが新鮮で驚きにあふれていたことと思います。年度の初めにその頃の気持ち、「初心」をもう一度思い出して、当たり前になってしまっていることへの新鮮さを感じていただきたいと思います。


陽がさすと
どの子のうしろにも小さな影ができる
わたしのうしろにも
すこし大きい影が
そんな些細なことにも
おどろかされる朝がある
    ( 中略 )
すくっと 立たなければ……
胸を張って 歩かなければ……
ねえ 無心にはしゃぎ回っているこどもたち
コップに コップの影がある
木の腰かけに 木の腰かけの影がある
これは些細なことなんかじゃなく
重大なことなのだと
きわめて神妙に考えこむ朝が ある  
                         新川和江 「存在」より


 今では当たり前になっている、子ども、親、兄弟、友達……が「存在」してくれていることに驚かされる朝をたくさん迎えることの出来る「新年度」でありますように。