法 話

大現禅師650年遠忌に因み
書き下ろし

大分県 ・円福寺住職  廣見宗泰

 平成から令和へと改元をされた本年は、大徳寺一世であります大現国師(徹翁義亨禅師・てっとうぎこうぜんじ)の650年遠忌を迎える年でもございます。その語録、『徹翁和尚語録』の中で

東風吹散梅梢雪 一夜挽回天下春

―東風吹き散ず梅梢の雪 一夜挽回す天下の春

(とうふうふきさんずばいしょうのゆき いちやばんかいすてんかのはる)

という一節がございます。
1906a.jpg これは、中国は南宋時代の白玉蟾(はくぎょくせん)が立春を詠んだ漢詩の一節です。春一番が梅の梢に残った雪を吹き飛ばすと、一夜にして春がやって来たことを詠んだものですが、これをもう少し掘り下げますと、雪と氷に閉ざされたような厳しい修行や下積みを一所懸命に積み重ね続け、ご縁を得、機が熟すことで、実は目の前に仏の世界が広がっていたことに気づくことをあらわしております。

 昔から「若いときの苦労は買ってでもせよ」ということわざは皆さま方もよくご存じのことだと思いますが、昨今なかなか聞かれることが少なくなったように感じます。インターネット等の情報を活用し、効率的に簡単に知識として得ることができてしまう現代社会において、身を以て経験し、苦労をして体得することは時代遅れ、非効率、無駄なものとされているように感じるからでしょうか。そんな現代だからこそ、より一層大切なことに思います。

 利休居士の訓(おしえ)をわかりやすくまとめた『利休道歌』に

規矩(きく)作法  守りつくして 破るとも 離るるとても 本(もと)を忘るな

と記されております。
 まずは師から教わった型を徹底的に真似て、学び、「守る」ところから修業や鍛錬といった下積みが始まります。そうして師の教えに従って、修業・鍛錬を積み重ね、その「型」を体得致します。その後、師の「型」をはじめ、他の「型」も自身と照らし合わせ、工夫し、悩み、もがき、苦しみを乗り越えることで、自分らしい「型」を模索し、はじめて既存の型を「破る」ことができるのであります。さらに修業・鍛錬を積み重ね、かつて教わった師の「型」と自分自身で見出した「型」の双方に精通することで、既存の型にとらわれない「型」から「離れ」、自在となることができるのです。
 しかし、「本を忘るな」とある通り、「型」を破り離れたとしても、その奥深くにある根本の「本」を見失ってはならないのです。
 まして、基本の「型」を会得しないままにいきなり個性や独創性を求めることは、いわゆる「形無し」なのです。十八代目中村勘三郎さんの座右の銘「型があるから型破り、型が無ければ形無し」といわれる所以です。

 どの世界でも同じだと思いますが、厳しい修行や鍛錬といった下積みをし、「本」を忘れずに、悩み、もがき、苦しみを乗り越えて、破り、離れ、得られたものだからこそ、実は目の前に仏の世界が広がっていたことに気づき、その時、その場で、自由自在に春を謳歌することができるのではないでしょうか。
 平成に引き続き令和でも、私自身の心が春を謳歌できるように、日々の行ないを修めること、即ち修行を一所懸命積み重ね続けなければと、650年遠忌に際して改めて思うところであります。
 誠に僭越ながら、縁あってこの話をお読み下さった皆さま方におかれましては、この話が何かの手助けになりますれば幸いです。