法 話

釋宗演禅師のこころシリーズ〔3〕
「致良知」
書き下ろし

岡山県 ・正満寺住職  蘆田貴道

 平成30年は大本山円覚寺・釋宗演禅師の遠諱であります。それに因んで禅師の次の一首を紹介していただきます。

  心より やがてこころに伝ふれば 
  さく花となり 鳴く鳥となる

rengo_1803a.jpg 「大切な教えを人から人へ、心から心へ伝えていけば、それは必ず花となって開くだろう、鳴く鳥となって現われるであろうというのです。教えは伝えていかねばなりません」という解説文も付いておりました。確かに教えを伝えていくことは大切です。
 平成29年の春の彼岸に滋賀県へお話に伺うご縁をいただきました。高島市のお寺でお話が終わりますと、和尚さんが「近江聖人中江藤樹記念館」に連れて行ってくださいました。皆さま方も昔、学校の教科書で記憶にあるかもしれません。
 中江藤樹は陽明学者であり哲学者です。その教えは身分を越え、広く民衆の間に浸透していきました。江戸時代の「士農工商」という歴然とした階級社会の中において、藤樹が説く「心の学問」は多くの人の共感を得ました。その教えの中に「良知にいたる」があります。藤樹は言います。


人は誰でも「良知」という美しい心を持って生まれています。この美しい心は誰とでも仲良く親しみ合い、尊敬し合い認め合う心です。ところが人々は次第に憎み、色々な欲望が起きて、つい良知を曇らせてしまいます。私たちは自分の欲望に打ち克って、良知を鏡のように磨き、その良知に従い、行ないを正しくするように努力することが大切です。


 私はこれを「藤樹記念館」で読んだ時、これはまさに仏教で説く仏心・仏性であると思いました。
 釈尊はお悟りを開かれたとき、生きとし生けるものすべてに「仏心・仏性」「仏の心」が具わっていると言われました。それは藤樹の説く「良知」に他なりません。仏教も儒教も陽明学も真理は一つであるということを確信いたしました。それと同時にこの教えを現在までこのように伝える大切さを有難いことだと思いました。
 ただ、禅はそこからもう一歩踏み込みます。つまり、心の鏡を磨くということは綺麗・汚いの世界であり、それを「二元の対立」といいます。今、この世は正に二元の対立の中で成立しています。しかし、釈尊はその二元の対立を破り人間としての真の安心を得たのです。
 私たちはまず藤樹の「良知」という教えを自らの生活の中で実践していくことが大切であると思います。実践をしていき、私たちの我が儘で身勝手で傲慢な心が少しづつ調えられていくのです。それを冒頭に紹介した、宗演老師の歌がお示しになられた仏道であると私は思います。
 「心」とは我が儘で身勝手で傲慢な心、「こころ」とは「良知」であり「仏心・仏性」です。氷のような堅い冷たい凡夫の心が、仏の教え、仏の慈悲に触れて、やがて氷が溶けて融通無礙なる水となる。そこが「こころ」であり、我執を離れた仏の世界であり無心の境地であるといわれるのです。花も無心、鳥も無心であり、無心に生きるということを、大自然はいつも私たちに教示してくれているのです。問題は私たちの心の鏡が曇ってはいないかということです。

 仏教に「聞・思・修」があります。「聞」とは聞く、教えをまず素直な心で聞く。そして、「思」とは「思う」。つまり考える。それも深く深く考える。最後に「修」は修行、実践です。この3つが合い揃って仏教であり仏道であります。そのためには仏縁を大切にしていかねばならないと思うのです。