更新日 2009/08/03 |
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『枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-』 (細川景一著・2000.11禅文化研究所刊)より |
師(麻谷宝徹禅師)、扇を使う次で、僧問う、「風性は常住にして処として周からずということ無し。和尚、甚麼と為てか却って扇を使う」。師云く、「你は只だ風性常住なることを知って、且つ処として周からずということ無きことを知らず」。云く、「作麼生か是れ処として周からざること無き底の道理」。師、却って扇を揺がす。 中国唐の時代、馬祖道一禅師の法を嗣いだ宝徹和尚(生没年不詳)の話です。クーラーも、扇風機もないある夏の日です。和尚は暑さをしのぐ為、扇子を使って涼んでいます。一人の修行僧がやって来て質問します。「風性、つまり空気は何時でも何処でも満ち満ちている。それなのに何故扇を使うのですか」。 和尚はそれを聞くと、「空気が何処にもある事を知っているけれど、空気のない処がない事を知らない」と誡めます。 すると僧も負けてはいません。「空気が何処にもあるという事と、空気のない処がないという事とは一緒の事ではないか、あえて和尚が空気のない処がないという道理を聞かせて下さい」と追いかけますが、和尚はただ黙って扇ぐのみだったというのです。 麻谷和尚は何を云おうとしたのでしょうか。 中国の詩人蘇東坡が、 渓声便ち是れ広長舌 物理的に人は水に浮く事になっています。しかし誰でも水に飛びこんだら浮くかと云えばそうではない。泳げない人はどういうわけか浮かばない。手足を動かせばかえって沈んでいってしまう。ところが泳げる人はどういうわけか沈まない。 人は水に浮く原理はわかっているけれど、実際に泳げない人は沈んでいってしまう。泳ぎを覚えて始めて体が浮く原理が名実ともにわかるわけです。 道元禅師は、「この法は、人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし」と云っておられます。 |