人生の大晦日

禅 語

更新日 2012/12/01
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人生の大晦日
臘月三十日。

『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』
(西村惠信著・2010.07 禅文化研究所刊)より

―臘月三十日―(『雲門広録』上)

臘月三十日は旧暦の大晦日である。人生いよいよ最後の土壇場。この世の見納め、親しい人ともお別れだ。自分の長い人生の途上でなしてきた、一つ一つの悪業の償いをしてこそ、胸を張って迎えられる日なのだけれど。


 生は偶然、死は必然という。「人の生を享けるは難し、死すべきものの、いま命あるは有り難し」と『法句経』にある。人間として生まれてくることは、「爪の上の砂」ほどの確率しかないのだと、仏陀は教えている。
 それほど稀少な人間の生を、自分はいったいどのように過ごしたかと忸怩たる思いに襲われるのは私ばかりではないであろう。もちろん私とて、他人に対してできる限りの善行も積んだつもりである。
 しかし、自分を護るため、あるいは自分の我見を通すうちに、誰しも人知れず測り知れない悪業も重ねて一生を過ごすであろう。それらをどう償えばよいのか。この期に及んで、まだ償いの余裕はあるのか。いや、そのような時間はもうない。地獄の獄卒たちが門前に迎えにきている。
 こうして皆な早かれ遅かれ、大晦日のあの忙しさにも似て、追い立てられるように死出の旅路につくことであろう。年末の大掃除のように、もっと早くから準備を始めておかなければならないのだ。
 最近新しく引っ越してきた人から、こんな話を聞いた。これから住もうとする家の中に入ってみると、隅ずみまで綺麗に拭き掃除をした跡がある。バケツに真っさらの雑巾が掛けてある。便所の花瓶には花が挿してある。廊下のメモ帳に、「次に入ってこられる方にと思って、お庭の隅にチューリップやヒヤシンスの球根を植えていきます。春になったらきっと美しい花が咲くことでしょう。お楽しみください」と書いてあった。電話の前には、お医者さんや病院や仕出し料理の店などの電話番号表が置いてあったという。
 人生という家も、後からやって来る人のために、そのように美しく去って行きたいものだ。