直接には伝えられない「真実」

禅 語

更新日 2013/06/03
禅語一覧に戻る

直接には伝えられない「真実」
以佛祖不傳妙道、掛在胸間。

『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』

(西村惠信著・2010.07 禅文化研究所刊)より

―仏祖不伝の妙道を胸間に掛在せよ―(『大灯国師遺誡』)

この語は大徳寺開山の宗峰妙超禅師が、臨終のとき門人に向かって言い遺された言葉である。「祖師たちの伝えなかったものを、しっかり自分のものとしなければ、私の子孫とよぶことを許さない」ということである。祖師たちが伝えたものこそ禅の教えであるはず。ではいったい「伝えなかったもの」とは何か。

禅宗の開祖達磨さんいらい中国や日本の禅師たちは、どの人も門人たちに向かって、親切に禅を説かれたのである。それらを記録した「禅語録」というものも、禅宗の歴史を証明する貴重な資料である。
 しかし紙に書かれた文字は「死句」であって、そこには生き生きとした祖師たちの息吹は残っていない。そのような反古をいくら読んでみても、禅の核心を学んだことにはならないのだ。ともかく人から人へと伝えられるようなものは、もはや「禅」ではない。
 仏陀であれキリストであれ、はたまた孔子にせよ、人類の教師と仰がれる人たちは、弟子たちに向かって多くの教えを説かれた。しかし彼らにもまた、自分以外の者に対して、これだけは伝えられないという部分があったはず。それはいったい何か。
 それは彼自身の存在である。彼らが食べた食事の味、彼らが実感した大小便放出の開放感。それらをどうして他人が知り得ようか。
 またよく「以心伝心」などと言うが、心にしても、どうして一人の人の心が他の人に伝えられよう。それは絶対に不可能である。だから冒頭に「仏祖不伝の妙道」とあるのは、祖師といえども決して伝えられなかった、自分だけの生きざまということになる。
 末世の者がそれを受け継ぐということは、したがって自分自身というものの内容を、祖師のしたようにしっかりと究明することなのだ。それが釈迦やキリストの真実を受けつぐ唯一の方法である。
 若い社長がなすべきことは、創業者の創った会社を無難に維持することではない。むしろ創業者がどのように生き、どのようにして会社を始めたかというその生きざまを、そのまま自分が追体験することである。それが本当の意味で「会社を継ぐ」ということになるであろう。