猶是生死岸頭事

禅 語

更新日 2015/03/01
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猶是生死岸頭事
なおこれしょうじがんとうのじ

『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』

(西村惠信著・2010.07 禅文化研究所刊)より

生きている限り煩悩だらけ

―猶お是れ 生死岸頭の事―(『碧巌録』四則)

生死の岸とは迷いの世界のこと。彼岸は悟りの世界。一日も早く此岸から彼岸に渡らなければならないが、悟ったと思っていても依然として迷いはつき纏うということ。


 若い頃『迷いの風光』という本を上梓した。これを書物として出版するとき私は、宗門から少しは批判を蒙るであろうと覚悟していたが、何らの誹謗中傷もなかったのは意外であった。それどころか無名の人から、こんな手紙をもらった。
 自分は若いときから参禅を続けてきたが、一度も悟ることができず情けなく思っていたが、先生の本を読んで、迷いもまた捨てがたいものと知って、始めて安心したというのである。
 もちろん、いうところの迷いの雲は、一刻も早く払わなければならない。しかし悟りを開けば人生がスッキリして、悩みがなくなってしまうというものでもなかろう。悟りにも「有余涅槃」と「無余涅槃」とがあるのだ。
 悟った人でも美味しいものは口にしたいし、綺麗な人を見ればうっとりするだろう。まだ煩悩がいっぱい残っているから、「有余涅槃」(煩悩の残っている悟り)という。「無余涅槃」は死ぬことである。死んでしまったら、どんな人間ももう煩悩のない仏さんだ。有り難いことにこの国では、どんな悪人でも死んでしまったら「成仏」である。
 かといって迷いを勧めているのではない。自分の煩悩に気づき、それを恥じつつ、それを慈しみながら、慎み深く生きるのである。そこに謙虚に生きる人間だけの美しさが光る。