佛高一丈魔高一丈

禅 語

更新日 2015/07/01
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佛高一丈魔高一丈
ぶつたかきこといちじょう、またかきこといちじょう

『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』

(西村惠信著・2010.07 禅文化研究所刊)より

真面目な人に魔が襲う

―仏高きこと一丈、魔高きこと一丈―(『続古尊宿語要』六、別峰印)

 『坐禅儀』に、「道高ければ魔盛んなり」と書かれている。真剣に坐禅修行すれば、それだけ悪魔が寄ってくるということである。悪魔は真面目な人のところに向かって邪魔をしに来る。自分で怠けている人を邪魔しても、意味がないからである。
 お釈迦さまが菩提樹の下で深い禅定に入っておられると、天から悪魔が降りてきて、色っぽいダンスをして邪魔をする。お釈迦さまはそういう悪魔と戦いつつ、禅定を続けられたという。いわゆる『仏伝』に見る「降魔」の物語りである。
 『大般若経』魔事品や『楞厳』、また天台の『摩訶止観』など、いずれの経典にも各種の「魔境」が説いてある。悟境が深くなればなるほど、悪魔はそれを狙うのだ。
 「光強ければ陰濃し」という。日光が燦々と降る夏の午後には日陰も濃いが、梅雨空の曇った日には、日陰は射さない。光と陰とは相反するものであるが、別々には存在することのない関係にある。同時に存在してお互いに相乗関係にある。
 俗に「出る杭は打たれる」とか、「高い樹は風当たりが強い」というのも同趣であろう。そうかといって精進努力を惜しんではならないのである。ただ、人間界では成功すればするほど、そのぶん妬みを買うのが世の常というものであろう。
 光によってできた陰を厭う必要はない。むしろそういう場合には身を屈めておけばよい。逆風に帆を張ることが、さらに船を進めることになる道理であろう。
 ところで天龍寺開山の夢窓国師は、『夢中問答』の中で、外から押し寄せてくる「外魔」は降伏しやすいが、内から攻めてくる「内魔」の降伏がかえって難しいと説いている。たとえば自分の事業の成功について「自己満足に酔う」ことは、恐るべき内魔である。それはちょうど酒に酔った人が、自分では酔いに気づかないように、自分では気づかないから、退治のしようもない恐ろしさである。お互いに心すべきことではないか。