垂糸千尺、不釣凡鱗

禅 語

更新日 2016/07/01
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垂糸千尺、不釣凡鱗
いとをたるることせんじゃく、ぼんりんをつらず

『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』

(西村惠信著・2010.07 禅文化研究所刊)より

大魚は深海にいる

  
―糸を垂るること千尺、凡鱗を釣らず―(『虚堂録』九)


りっぱな魚は深いところにいるものだ。だから大魚を釣り上げようと思うなら、長い長い糸を垂れなければならない。小さな雑魚などを釣ってはいられないのだ。「糸を千尺に垂るるは、意は深潭に在り」と言い「水浅くして魚無く、徒らに釣り糸を下すことを労す」などと言うのは、凡人が易きを求める愚を笑ったものである。
 言うまでもなくここで魚というのは修行者のこと。釣り人は彼らを指導する禅僧である。だからこの喩えは、必ずしも魚釣りの話ではない。
 立派な後継者を見出すためには、「心が深潭」、つまり深い池の底まで届いていなければならないという、教育者たるものの心得をいうのである。一般の会社でも後継者選びということは会社の命運を決する重要課題であろう。だから会社の責任者は、決して浅い判断で雑魚を釣り上げてはならず、深慮をもって大魚を獲なければならないであろう。
 ある会社の採用試験で、面接官を前にしてキセルでタバコをすった男があった。普通ならこの変わり者ということで不合格にするところ、社長の眼はその男の所作に何か特異なものを見抜いて採用した。その男は入社すると抜群の実力を発揮し、いまや社長となって資本金数億円の会社を経営している。実際に私が知る卑近な例である。
 釣り人について面白い話がある。むかし中国で一人の男が、川辺に坐って真っ直ぐな針のついた釣り糸を垂れていた。やがてその噂が天子の耳に届き、天子に召されて禁中に入った。「そのような針で、お前は何を釣ろうというのか」と尋ねられ、男は答えた、「はい、やっとあなた様を釣り上げました」と。
 この話の面白さは非常識の勝利を伝えている。するとわれわれの持っている常識の糸は、実に短い糸と言わねばならない。これでは立派な大魚を釣り上げることはできない道理であろう。