見過於師方堪傳授

禅 語

更新日 2017/03/01
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見過於師方堪傳授
けんしにすぎてまさにでんじゅするにたえたり

『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』

(西村惠信著・2010.07 禅文化研究所刊)より

親を超えた子が後を継ぐ


―見、師と斉しければ師の半徳を減ず、見、師に過ぎて方めて伝授さるるに堪う―(『伝灯録』六、百丈懐海章)


 何ごとであれ、ものを伝えるときには、弟子の実力が師匠を凌いでこそ免許皆伝ということになる。さもなければただ師匠の顔を汚すだけであるということ。どうかすると、実力がようやく同等になった者や、実力がまだ十分でない者に指導を任せようとする現代の師の心すべきところか。
 「鳶が鷹を産む」ということがある。親としては願ってもないことであろう。親でさえまさか自分たちの子供が、と思うような出来栄えを見せてくれるからである。意外と親が教育に無関心な場合に起こる現象であろう。親が喧しく言わないということが、かえって子供に自立の精神を培わせるということがあるようだ。
 この頃は、子供が先祖伝来の職業を受け継ぐというような古来の習慣は崩れつつある。子供が継ごうと思えば継ぐのもよし、継ぎたくなければ継がなくてもよしと、親の方も居直ってしまっているように見える。
 現代の親たちは、たとえ子供が家を捨てても、世間に出て自分たちよりも立派な、意味ある人生を送ってくれることを願っているようだ。それが現代の親心というものらしい。
 だからもし家を出てしまっただけで、親のなしたほどの社会貢献もできなければ、親の顔を汚すだけであろう。親が努力して積み上げた一生の人徳を食いつぶす不肖の子ということになる。親を凌ぐほどの社会的役割を果たしてこそ、親はようやく我がことのように、世間に対して誇りを持ち得るのだ。
 日本の国技である相撲の世界には、この点で実に厳しい掟が残されている。上位番付の力士と対等の勝負では昇進はない。何番取っても必ず上位の者に勝ってこそ、始めて昇進が許されるようだ。何かにつけ伝統を受け継ぐということは、容易なことではないであろう。