忙と閑の調和する世界

禅 語

更新日 2012/11/01
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忙と閑の調和する世界
雲在嶺頭閑不徹、水流澗下太忙生。

『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』
(西村惠信著・2010.07 禅文化研究所刊)より

―雲は嶺頭に在って閑不徹、水は澗下を流れて太忙生―(『雪竇語録』三)

高い山の頂きにポッカリとひとひらの雲が浮かんでいる。渓谷に眼をやるとさらさらと忙しそうに急流が音を立てて流れている。なんという緩と急の取り合わせであろう。人間もこのように多忙と有閑が調和した生活をすべきであろう。


 私が禅の専門道場で最初に習ったことは、「緩急宜しく節を得べし」という禅堂生活の心構えであった。まず、草履を履いて堂内を歩くことから厳しい注意を受けた。草履を引きずってバタバタと歩くことはもちろん禁物である。
 だからと言って草履の音を立てないようにゆっくり気をつけて歩けば、「盗人のような格好で歩くんじゃない」と怒鳴られた。悠然として、しかも颯々と歩くようになるまで三カ月ぐらいはかかっただろうか。歩くときばかりではない。箸の上げ下ろしから入浴のマナーにいたるまで、生活の全般にわたって、緩と急の調和は雲水生活の基本であった。
 「把住と放行」も同じこと、「把住」は物をグッと握り締めることであり、いわば緊張の一面である。反対に「放行」はその手をパッと拡げて物を手放すことで、開放の一面である。この二面をいかに機敏に使い分けるかが、一般の家庭生活においても大切であろう。
 たとえば家庭生活において、お金の無駄使いは禁物である。収入のことを考えずに贅沢ばかりしていると、直ぐに財布が底をついてしまう。いくらお金があっても、平素はできるだけ質素でなければならない。
 またいくら貧しくても、ここ一番というときお金を出し惜しんでは、お金を使う値打ちがなくなってしまう。私の養母は平素ずいぶんと始末屋であったが、修学旅行の時などは、学校で決められた限度を、遙かに超えるお金を持たせてくれた。そして「残ったら返しなさい」と言うのを忘れなかった。