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円覚寺◆伽藍

-山門(三門)-
 山門は三つの門とも書きます。
 三門は三解脱門(空・無相・無願)を象徴するといわれ、諸々の執着を取り払って佛殿(涅槃・解脱)に至る門とされます。ここをくぐったら娑婆世界を断ち切り、清淨な気持ちで、佛殿(本尊様)をお参りしなければならないとされます。
 現在の山門は天明5年(1785)開山5百年遠諱の年に大用国師(誠拙周樗)によって再建されました。
 「円覚興聖禅寺」の扁額は伏見上皇(北条貞時の時代)より賜りました。
 楼上に十一面観音像・十二神将・十六羅漢をおまつりしてあり、毎年6月18日観音懺法が行われます。
 現在の円覚寺の伽藍の中で唯一関東大震災で倒壊しなかった建造物であります。
-佛殿-
 円覚寺の本尊さまをおまつりしてある建物で、震災で倒壊しましたが、昭和39年に再建されました。
 本尊さまは冠を被っておられるので、宝冠釈迦如来とよばれます。華厳の盧遮那仏とも称されます。本尊様は弘安5年(1282)佛殿開堂の際に建立されましたが、永禄6年 (1563)の大火で焼失、お顔のみが救出されました。後に江戸時代、天甫昌円によって寛永2年(1625)佛殿が再建される際に躰部が補造されました。その時、本尊様の両脇に梵天、帝釈天がまつられました。「大光明寶殿」の扁額は1378年 、後光厳天皇より賜りました。
 天井に描かれている白龍図は、前田青邨画伯とその弟子守屋多々志画伯によるものです。
 通常、祝聖・ニ祖三仏忌等の行事や毎朝の暁天坐禅がここで行われています。
-妙香池-
 建武2年(1335)の円覚寺境内絵図にみられるように創建当初よりある放生池で、平成12年江戸時代初期の絵図に基づき、方丈裏庭園と合致した自然の姿に復元しました。向こう岸の露出した岩盤を虎の頭に見たてて「虎頭岩」とよんでいます。
-舎利殿-
 −由来−
 舎利とは言うまでもなくお釈迦様のお骨の事で、この円覚寺の舎利殿には「佛牙舎利」といいましてお釈迦様のお歯をおまつりしてあります。
 その由来は将軍源実朝公が佛舎利の夢を見られ、宗の能仁寺に使者を遣わして請来され、鎌倉の大慈寺に安置されたことによります。その後、舎利信仰の篤い当山2世大休正念禅師が住持の時(弘安8年(1285))、北條貞時が一門の守護を願って円覚寺に遷祀されました。。
 この佛舎利をおまつりしてある建物がこの国宝舎利殿です。
 この舎利殿は鎌倉にあったもと太平寺(尼寺)の佛殿(鎌倉時代末〜室町初期に再建)を移築したものです。
 戦国時代、弘治2年(1556)安房の里見義弘が鎌倉に攻め入り、鎌倉尼五山第一位太平寺住職青岳尼を奪って、夫人として迎えました。その当時鎌倉を治めていた北條氏康はこの事態に激怒され、太平寺を廃絶にしました。
 このころ円覚寺は、たび重なる火災で開山堂や昭堂(開山像を礼拜するお堂)を失っていましたので北條氏康は太平寺の佛殿を昭堂としてこの正続院に移築したのです。(このことは円覚寺古文書・北條氏康書状に記されてある)。この昭堂に仏牙舎利を泰安したので舎利殿と呼ぶようになりました。
 関東大震災に倒壊しましたが、昭和4年に昔のまま復元しました。
 −建物について−
 禅宗様式の建物として今日国宝に指定されていますが、その特色としては、屋根の勾配の美しさ、軒の反りの美しいこと、柱の細いことがあげられます。
 そして屋根の軒下から出ている垂木ですが、特に上の段の垂木はよく見ると、扇子の骨のように広がっているので、扇垂木と呼ばれています。これが、屋根を一層大きく、また建物自体を小さいながらも大きく見せています。
 長押の上に「弓欄間」または「波欄間」とも呼ばれている欄間があります。これは装飾ではありますが、この隙間から内部に光と風を送って、建物の保存にま役立っています。
 次に花頭窓ですが、鎌倉時代後期の特色としては、窓の形が簡素で、窓の外枠のたての線が真っ直ぐになっているのが特徴です。(禅堂・江戸時代の花頭窓は広がっています)
 外部の柱と基盤の間には、礎石があり、これが柱の下を腐らないようにさせています。特に鎌倉は湿気が強いのでこのような工夫が必要なのです。
 屋根はさわらの薄い板で葺いてあります。こけらぶき(柿葺)といって少しずつ重ねて葺いてあります。水に強いさわらの木(昔、風呂おけやなべの蓋に使った)ですが、25年に1度は葺き替えねばなりません。
 内部正面に佛舎利をおまつりする宮殿が安置され、その前に鎌倉彫りの須弥檀があり、観音菩薩と地藏菩薩がまつられています。その上は小さな鏡天井になっています。
 隣は坐禅道場になっています。……
 舎利殿の裏には開山堂……
 山の中腹に開山様の墓所があります。……
-開基廟-
 開基廟は佛日庵御霊屋とも呼ばれ、円覚寺大檀那である北條時宗・貞時・高時をおまつりしてあります。時宗公は1284年(弘安7年)4月4日に亡くなられています。つまりは円覚寺が建立されてから2年後のことです。開山国師は時宗公の死を大変悲しまれ、公の人徳を称えられた法語は佛光録に記されています。
 時宗公が亡くなられ後に開基廟が建立されたようですが、現在の開基廟は江戸時代1811年(文化8年)に改築されたものとされています。その折、三橋家によって三体の尊像が修理されています。「新編相模風土記」によればお堂の下に各遺骨を納めた石櫃があるとの伝えがしるされています。
 毎年4月4日ここで開基祭が行われます。また四日会というお茶会が開かれています。
 −まつられている三像について−
 ○ 北條時宗公について
 時宗公は建長3年(1251)に生まれ、文永5年18歳で執権に就任、同11年(1274)文永の役がおこりました。
 父北條時頼の影響もあって、中国から招いた無学祖元禅師を師として参禅に励んでいました。文永・弘安の蒙古襲来という国難に立ち向かった執権時宗公は、金剛経・円覚経を血書し国師に奉納しました。
 国師は時宗公の熱意に打たれ、「この般若の力を念ずれば、必ず勝利を得ることが出来る,」と励まし、「莫煩悩」の3字を書き与え、勇猛心を奮起させました。 この国師の激励があってこそ、時宗公が奮起し、日本軍を振るい立たせ蒙古軍を撃退させたのです。

この時宗をたたえ、昭憲皇太后は
 あだなみは ふたたびよせず なりにけり
  鎌倉山の 松のあらしに

とうたわれました。この歌は現在廟所の中に額に飾られています。
 蒙古軍を撃退した時宗公は戦死者を敵味方区別なく(冤親平等)弔うため、また国師に鎌倉にとどまって禅をひろめて欲しいという願いもあって、弘安5年12月8日時宗公は円覚寺を開創し、落慶開堂を行いました。
 その2年後34歳の若さで亡くなられました。
 法名は 法光寺殿杲公大禅定門。
開山国師は時宗公が亡くなられた事を悲しまれ、自悼の詩に

法の為に人を求めて日本に来る
珠回り玉転じて荒台に委す
大唐沈却す孤◇の影
添え得たり扶桑一掬の灰
  ※◇は竹冠に工におおざと。

とあります。 時宗公夫人は国師について得度、潮音院覚山志道尼と号し東慶寺を開山しました。

 ○ 北條貞時公について
 時宗公の子で、父の死によって弘安7年(1284)14歳の時執権職につきました。北条一門の権力を強め、幕府の政治を掌握しました。 時頼・時宗公と同じように深く禅宗に帰依し、特に来朝僧一山一寧に参禅し、円覚寺の第7世住持にむかえました。
 貞時は父時宗の志をついで大檀那となり、円覚寺に洪鐘を造って国家の安泰を願いました。これが佛殿横高台にあります国宝の洪鐘です。
 また「禅院制府」というものを定め、禅僧(修行僧)たちの規律をつくりました。これは円覚寺古文書のなかにありに重要文化財に指定されています。この規則には大変興味深いものもあります。例えば女性が寺に入ってよい日はいつとか、僧侶の外出の規制とか、かなり厳しい束縛があったようです。
 貞時の時代には円覚寺僧侶の人数が二百人にのぼり、寺が栄えた事がうかがわれます。
 応長元年(1311)40歳の生涯を閉じられました。 法名、最勝園寺殿演公大禅定門。
 ○ 北條高時について
 貞時公の子で、禅宗に深く帰依し、この佛日庵で貞時13回忌を盛大に執り行った記録が、古文書に記されています。
 現在は残っていませんが、このころに法堂が建立されています。
 高時公は南山士雲禅師や夢窓國師(夢窓疎石)に参禅されました。そして高時公は夢窓国師を鎌倉幕府滅亡の時代に住持としてむかえました。国師は後醍醐天皇や足利氏の信任が篤く、国師のご人徳と尽力によって円覚寺は戦乱から逃れ、寺を護持することができました。
法名、日輪寺殿鑑公大禅定門。
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