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向嶽寺◆開山・歴史

抜隊得勝(慧光大円禅師)
 向嶽寺の開山は抜隊得勝(ばっすいとくしょう)禅師〔慧光大円禅師〕です。禅師は鎌倉幕府が滅亡する直前の嘉暦2年(1327)10月6日、相模国中村(神奈川県足柄上郡中井町)に生まれました。父の姓は藤氏と伝わります。禅師は4歳の時に父を失いますが、その三回忌に供物を供えるのを見て、亡くなった父はどうしてこの供物を食べるのだろうと素朴な疑問を抱いたと言われます。このことについて後年抜隊禅師は、「少年より一つうたがいおこりて候ひし。そもそもこの身を成敗(裁くこと)して誰そと問えば我と答えるものはこれ何物ぞ。」(『塩山仮名法語』)と疑ったと述べられています。
 この疑いが深くなるにつれて出家しようとの志が深まり、ついに正平10年(1355)29歳の正月「衆生を度し尽くして後に正覚を成ずべし。」と決意されます。この決意は阿弥陀如来の前身である法蔵菩薩の大願と同じで極めて注目すべきことです。
 出家された抜隊禅師は中国僧・明極楚俊(みんきそしゅん)の高弟(特に優れた弟子)で出世を嫌って山中に庵居していた得瓊(とっけい)を訪ね、自己の心境を披瀝(ひれき)し同じく山居修行を続け、やがてさらに心境が深まるにつれその究めたところをしかるべき師に証明してもらおうと、鎌倉・建長寺に肯山聞悟(こうざんもんご)を、常陸に復庵宗己(ふくあんそうこ)をというように各地を遍歴し正平12年再び得瓊の下に帰ります。13年得瓊の勧めで出雲・雲樹寺に孤峯覚明(こほうかくみょう)を訪ね修行を始めましたが、僅かに60日、その悟りの境地が認められついにその印可を得ることになります。孤峯は千挙を群といい万挙を隊というとして禅師に「抜隊」の道号を授けました。孤峯の法を嗣(つ)いだ抜隊禅師は近江の永源寺に寂室元光(じゃくしつげんこう)を、また能登の曹洞宗・総持寺に峨山紹碩(がさんじょうせき)を訪ねるなど各地を遍しました。その後も伊豆・相模の山中に庵居され、永和2年(1376)には武蔵横山(現八王子市)に移り、さらに永和4年(1378)には以前から志していた甲斐に入り高森(塩山市竹森)に庵居することになります。高森には禅師を慕って800人にも及ぶ僧俗が参集したといいます。ところで、昌秀庵主という人がいて、深く禅師の徳風を慕っていました。昌秀庵主は抜隊禅師の住む庵が風当たりが強く、山道が険しい所にあったため、教えを受ける者たちが苦労しているのを見て、時の領主・武田信成(のぶしげ)に要請して、塩山の地を寄進させ、康暦2年(1380)正月に「塩の山」の麓に庵を創建し抜隊禅師を招き入れています。抜隊禅師54歳の時でした。この庵は、かつて抜隊禅師が近江にいた頃、夢に富士山を見、今、塩山にいて目の前に富士山を眺めていることにちなんで「向嶽庵」と称されました。寺号をつけなかったのは抜隊禅師が道行のすたれることを心配し、修行を専一にという考えによります。
 抜隊禅師は初発心時のお考えのごとく、まさに泥まみれになって僧俗の教化に努められました。至徳3年(1386)に上梓された『和泥合水集』は衆生を教化救済するためには、泥まみれ、びしょぬれになることをいとわないことを書名としています。また遠隔の地の人々からの質問に手紙で懇切に答えられた『塩山仮名法語』もあります禅師は至徳4年(1387)2月20日、端座して周りの弟子たちに向かって、「端的(たんてき)是(こ)れ什麼(なん)ぞと看(み)よ、什麼(いんも)に看ば必ず相い錯(あやま)らざらん」と2回にわたって声高に告げ、灯火が消えていくかのごとくに寂したといいます。61歳でした。
 その後、天文16年(1547)6月、甲斐の実権を握った守護・武田信玄の朝廷への働きかけによって抜隊禅師に「慧光大円禅師」の諡号(しごう)を賜ることになります。

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