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「現実を認めて生きる」
岐阜県・多福寺住職 飯沼宗秀
正月や 冥途の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし(一休宗純禅師)

 新年を迎えますとやはりすがすがしく、なんとなく嬉しい気持ちになるものですが、一休禅師は、「いたずらに喜びはしゃぐだけでなく、現実を正しく認識しなされや」と訴えておられます。
 最近の宗教のあり方を見つめますと、名前を変えると良いことがあるとか、どちらかの方角で宝くじを買うと当たるとかいうように、欲望を満たすための邪宗教に人気があるように思います。しかし、よこしまな欲望は満たされないので、常に悩み苦しまねばなりません。
 一方、お釈迦さまの教えは反対で、欲望を滅するように説いておられるのです。この世は無常であり、形あるものは常に変化していますので、そのものという実体がありません。私たちが感ずる現象は、すべて仮の姿なのです。しかし、仮の姿ではありますが、無い訳ではありません。哲学者の西田幾太郎先生は、この現実を次のように歌われました。

わが心 深き底あり よろこびも うれいの波も とどかじと思う

 存在するとかしないとか、めでたいとかめでたくないという二元を超えて、現実をそのまま受け入れ正しく認識してこそ、今生かされる自分が輝き感謝できるのです。
 中部地方ではよく知られる新聞に、中日新聞があります。この中で、清水寺住職の森清範さんが、先住職の大西良慶師の思い出を語っておられました。アメリカの作家、パール・バックさんが来られた時、百歳近い先住職に次のような質問をされたのです。「あなたはずいぶん長く生きてこられましたが、一番良かったなぁと思う時期はいつ頃ですか?」 。大西良慶師は即座に答えられました。「今やね、今がええねぇ」。迷わず答えられた様子に、宗派は違えどもすぐれた禅者を感じました。過去が良かったと言えば未練が残ります。未来が良いと言えば地に足が着いていません。現実を正しく見据える人は、今を大切にし、今に感謝して生きておられるのだと知らされました。時には不平を漏らす自分が恥ずかしくなります。
 平成十九年の十月には、元妙心寺派布教師会会長の佐々木瑞昌師が、岐阜県での式典に出頭されるため、大分県より出向されました。しばらくお会いしていない奥様の様子を尋ねますと、即座にお答えくださいました。
「毎日の医者通いが日課になっておるが、食事も作ってくれるのう、百点満点じゃ!」
老いと病を背負われる現実をそのまま認め、感謝の日々を送られるお姿に感動致しました。

掲載月 2008/01


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