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「ありのままに見ること 〜脳認知科学と仏教〜」
東京禅センター主任 松竹寛山

 今年の9月6日、東京大学駒場キャンパスにおいて「科学と仏教の接点〜脳認知科学と仏教〜」(花園大学・妙心寺派東京禅センター共催)という公開講座が開催されました。最初に、脳科学者の藤田一郎先生(大阪大学大学院)による最先端の脳認知科学の紹介があり、その後、仏教学者の佐々木閑先生(花園大学)とのトークセッションで満員250名の会場はとても盛り上がりました。
 藤田先生のお話は、「人間の脳の構造上、ものをありのままに見ることはできない」ということで、「ものを見る」という観点から、さまざまな「錯視」の例が紹介されました。錯視というのは、視覚における錯覚のことです。実際には全く同じ長さの棒の両端にチョッと線を書き加えるだけで長く見えたり短く見えたり(ミュラー・リヤーの錯視図)。実際には動いていない文字が動いているように見えたり(ネオンサインなど)。図形をじっと見ているとグラスに見えたり、おばあさんの顔に見えたり(反転図形)、という図形や現象が良く知られています。
 仏教や禅では「如実知見」あるいは「柳は緑、花は紅」という言葉もあるように、ものをありのままに見ることがとても大切なこととされています。しかし、藤田先生のお話を聞いて、ものを知覚するというプロセスの最初の段階で、既にありのままではないことがわかりました。さらにその後、見る人の置かれた環境や条件によっても見え方はずいぶん変わることがわかっています。ちょうど伝言ゲームのように、どこでどう変わってしまったのか、最後には最初の文章の形を残さないくらいに変わってしまうこともあります。ですから、複雑な人間関係になると、何がなんだかわからなくなってしまいませんか?
 私たちはちょっとした人間関係のもつれで、悩んだり、落ち込んだりすることが多いものです。そんな時は、無理に状況を変えようとしないで、「それをそのまま認め、受けとめて、そこからはじめてみること」が仏教や禅でいうところの「ありのまま」ということになるのかもしれませんね。藤田先生の脳と錯視のお話からそんなことを思いました。
 「科学と宗教」というどちらも人間の心を扱ってはいるものの、両極に位置する分野同士の対話です。現象を客観的に観察して説明しようとする「科学」と、2500年前に釈尊が直覚的に悟られた「仏教」との共通点や相違点が、今後、ますます明らかになってくることでしょう。これから、「科学と仏教の接点」ではどんな対話が続いていくのか……。とてもワクワクしています。

掲載月 2008/10


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