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「心」
京都府・瑞光院住職 岡田亘令 
 人間には生まれた時から「心」というものが具(そな)わっている。別段親からこの子にはこの心を与えようと貰った訳でもない。そして心には形がない。形がないから目にも見えない。目に見えないから捕え様がない。とかく人の事を批判するが、自分の事と成るとさっぱり解らない、実に厄介(やっかい)な存在である。  
 我々人間はこのえたいの知れない心というものに、朝から晩まで日当も貰わずただでコキ使われ、引き回され、右往左往させられて、悩んだり苦しんだり、喜んだり悲しんだり、泣いたり笑ったりの百面相の生活をしている。
 何の事はない、あやつりの木偶(でく)人形とおんなじだ、そして人形が古くなってガタが来て使えなくなった時が自分の一生が終わる時。
 『心こそ心迷わす心なれ 心に心心許すな』という古歌もある。迷うのも心、悟るのも心、苦しむのも心、楽しむのも心、信じるのも心、疑うのも心、向上するのも心、堕落するのも心、『千成(せんなり)やつるひと筋の心より』とは言い得て妙である。
 欲しいと思う心に引かれて盗みをする、憎いと思う心が人殺しまでする。道理を知らない心が道に背く、幸い今自分は警察の御厄介になる様な大罪は犯していないかもしれませんが、 いつ何時そのような持ち場、立場、境遇に置かれたら、一体何を仕出かすか解らない全く物騒な、心という爆発物を一人一人が持っているという事になります。
 今刑務所に入っている人たちは皆、自分の心に使われて、心に引きずられて自分の心を抑制する事ができなかった人たちでありましょう。まさか自分に限って、心配ない、大丈夫と思っている人もいるでしょうが、油断は大敵、「気を付けていながら滑る雪の道」という事もある。また「明眼の衲僧 井に落つ」ともいいます。
 現実に、世間的地位もあり、名誉もあり、通理の分別の充分に出来る年齢になっていて、人の頭として仰がれる様な立派な人が、つい詰まらない事で失敗する、目も悪くないのに昼間から古井戸に落ちるようなもので、ほんの少しの心の迷いに引き込まれて取り返しの付かない結果になります。
 さて、一体この心とはどんなものなのか、大きいのか小さいのか、赤いのか白いのか、丸いのか四角なのか、自分の心でありながら、自分が自分の心の実態を知らないという事は、一体どういう事でしょう。
 臨済禅師は『赤肉(しゃくにく)団上(だんじょう)に一無位(いちむい)の真人(しんにん)あり。常に汝等(なんじら)諸人の面門(めんもん)より出入(しゅつにゅう)す。未(いま)だ証拠せざらん者は看よ、看よ。』と申されています。
 自分で自分の心を見た事もなく、自分が自分の心を未だ知らないという事を、これ幸いとばかりに、心が好き勝手のしたい放題、鳥なき里のコウモリ、猫のいない家のネズミの様に暴れ回る。心の命ずるままにと歌の文句ではカッコ良いけれど、こんな状態の心に引き回されて行動すれば、その行く先は刑務所しかありません。
 自動車という物は大変便利なものです。歩けば一日かかる所でも車なら短時間で行けます。しかし無免許の人が運転すればどうでしょう。車の構造も、運転方法も、交通ルールも知らない人が運転すれば、人を跳ねたり、壁をぶち抜いたり、ガケから落ちたり、危ないことこの上ありません。
 これと同様に人の心も使い方次第で身を滅ぼし、また上手に使えばこれ程便利な物はない。凡夫を変じて佛にすることが出来る。不幸を幸せにすることが出来る。苦を楽にすることが出来る。禅語には「瓦礫(がりゃく)を変じて黄金(おうごん)となす」とあります。
 人間は自心の使用人になっては行けません。心の主人になりましょう。使用人と主人とでは大変な違いです。
 禅は教えではありません、悟りの宗教です。静かに座って自己の心に目覚めましょう。佛道のロードマップに随って迷わず、真の目的地に向かって精進される事をお願い致します。

掲載月 2008/08


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