臨済禅黄檗禅 携帯サイト

「現代における「愛語」の重要性」
京都府・雲林院住職 藤田 寛蹊

 最近新聞やテレビのニュースで、子供達の「自殺」が多く報道されている。若くして自分の命を絶っている子供達の多さにやり切れない思いである。そこでいつも問題視されているのが「学校」である。先生や校長の記者会見を見ていると、問題は学校だけなのだろうかと思ってしまう。家庭はどうだったのか。親子関係はどうだったのか……。
 なぜ、学校よりも家庭を重視しないのか。学校は大切である。しかし、家庭つまり親子関係はもっと大切である。問題の一つは、自分の悩みを打ち明けられない家庭環境ではないだろうか。
 江戸時代の禅僧、盤珪永琢(1622‐93)の『盤珪禅師法語』には、「子には慈悲を加えるが親の道、また、親には孝行を尽くすが子の道」とある。至極当然のことを説いているのだが、「子に慈悲を加える」にはどうすれば良いだろうか。――私は、「愛語」だと考えている。「愛語」とは思いやりの言葉である。大きな縁があり一緒に暮らしているにも関わらず、一言も言葉を交わさない。そのような中でお互いの信頼関係は構築できるのであろうか。
 曹洞宗大本山永平寺67世貫主北野元峰和尚は、幼少の時に出家し親もとを離れ修行していた。母親が病気になり何十年ぶりに帰郷し、看病が終わりお寺に帰る時、母親に「立派な和尚になれなかったら、二度とこの家の敷居を跨(また)ぎません」と言った。母親はそんな和尚に「立派になれなかったら尚更家に帰ってきなさい」と答えた。誰にも相手にされなくなった時こそ自分のところに戻ってきなさいと言う「愛語」に和尚は修行に邁進し、最後は貫主にまでなられたのである。
 こんな「愛語」もある。円覚寺の管長であられた釈宗演(1859‐1918)老師の修行時代の話である。師匠である俊崕和尚が外出され、本堂の廊下で寝ていると突然俊崕和尚が帰ってこられた、どうすることも出来ずに狸寝入りを決込んでいると、それを見ていた俊崕和尚は怒鳴りもせず、静かに手を合わせ「ごめんくだされ」と小声でつぶやき通り過ぎた。私はこれこそ「無言の愛語」だと思う。宗演老師は後に「あの時は恥ずかしさと申し訳なさで真っ赤になった。しかし、人の師たるべきものはどうあるべきかを教えられた」と語られたそうである。「思いやり」を言葉にせず、ただ無言でじっと見守ることも時には大切なのである。
 本当は子供に限らず全ての人に対して思いやり、「愛語」は必要である。しかし今、それが最も家庭で欠落している。思いやりの気持ちがあれば「おはよう」「お帰り」の言葉だけでも愛情を感じる筈である。現代は兎角、結果だけで判断しようとする傾向にある。しかし、「愛情」はすぐできるものではない。日常の積み重ねがあってこそ育まれ、親子が互いに信ずることによってはじめてできるのである。学校は万全ではない。しかし、家庭は違う。子供を叱る前に今一度、我家の教育とは何か見直す必要があるのではないだろうか。

掲載月 2008/07


戻る
トップへ戻る
Copyright(C)Joint Council for Rinzai and Obaku Zen. All rights reserved.