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自分を捨てる



『愛語 よい言葉をかけて暮らそう ―山田無文老師説話集―』
(2005.11禅文化研究所編・刊)より
  

 親鸞聖人は、聖道門つまり自力は難行で、他力は易行だと申されております。修行をして自力で悟りを開くなどということは難しいが、如来さまが救って下さるというのだったらこれが一番の易行道で、凡夫の道はこれ以外にはないと申されておるのです。念仏を唱えておりさえすればそれで救っていただける易行門、いわゆる浄土門を開かれたのですが、その易行門が実は「難中の至難」、難しい中で最も難しいのです。  「如来さまにまかせる」というその論理は極めてやさしいのですが、如来さまにおまかせするにしても、まず自分を捨てなくてはいかん。坐禅をして自分を捨てるのと同様に自分を捨てなくてはいかん。その自分を捨てたところが、「大道」であり「至道」ですが、その、自分を捨てるというそのことが、実はなかなか容易ならんことなのです。しかし、一度自分を捨ててしまえば、あとは楽です。

 
となうれば仏もわれもなかりけり
          南無阿弥陀仏なむあみだ仏

で、本当に、真剣に念仏を唱えておりますと、唱えておる我もなければ唱えられる如来さまもなくなる。何もなくなる。仏もなければ凡夫もない、「一」の世界です。対立のない世界で、念仏もその世界へ一度どうしても入らないといかん。そこに入れば、あとはおまかせをすればいいのですから、念仏は楽である。こうおっしゃるが、それは坐禅も同じことで、

聖道門のひとはみな 自力の心をむねとして 他力不思議にいりぬれば 義なきを義とすと信知せり

そこまでいけば、あとは自然にまかせたらよろしいのですから楽です。けれども、その、何も思わん、我もなければ仏もない、「元と是れ一空」というそこまで一度到達しないと救われないのです。

 

更新日 2013/04/01


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