―竹密にして流水の過ぐるを妨げず、山高くして豈に白雲の飛ぶを碍(さまた)げんや―(『伝灯録』二十、永安善静章)
ある僧が楽普の善静和尚の道場を去るとき、善静和尚が「周りは山ばかりだが、お前は何処に向かって行くつもりかな」と言われた。僧が何とも返答できずにいると、善静が代わって答えたのが、冒頭の一句である。
竹が密集している所を水が流れているという風景は、この頃ではあまり見ないであろう。私が子供の頃には、まだそういう景色はどこにでもあった。とにかく森の道など歩くと、きれいな水がさらさら流れていたが、それを特別のこととは思わなかった。今思うとそれはまことに美しき天然の美であったのだ。空気が美しかったせいか、山も空ももっと高く、青々していたように思う。
さて、冒頭の禅語は、周りは山ばかりであるのに、お前は何処に向かって行くつもりかという問いに対しての答えであるが、実は、どちらを向いても問題だらけのわれわれの日常生活を、どのように生きればいいかを聞いているのである。どっちを向いても問題山積である。その中をどのようにすり抜けて進めばいいか。それを教えてくれるのが、雲や水の、こだわりのない姿であろう。
いくら竹が密集していても、水はさらさらと流れていく。いくら山が高くても、雲はさらさらと流れていく。なんと自由で淡泊な対処であろうか。人間だけがわずかなことに引っかかって、ぎくしゃくして嫌な一日を送る。こんな馬鹿なことがあっていいものか。
何とか水のようにサラサラした心境になれないものか。空の雲のように、高い山なんか問題にせずふわりふわりと流れていきたいものである。どうして、われわれがあれこれと引っかかりながら、日を過ごすことがあろう。