各派のご本山

巨福山 建長寺こふくざん けんちょうじ

    概略・歴史

    由比ヶ浜を背にし、鶴岡八幡宮を右手に巨福呂〈こぶくろ〉坂の切り通しを抜けると建長寺である。
    正式名称は「巨福山建長興国禅寺」、臨済宗建寺派の大本山である。
    1249年(建長元年)、鎌倉幕府第五代執権・北条時頼が国家興隆と北条家菩提のため、
    南宋より来朝した臨済宗の蘭渓道隆〈らんけいどうりゅう〉(1213~1278)を招いて創建し、1253年に落成した。
    地獄谷と呼ばれた処刑場で地蔵堂のあった場所に建てられたことから、本尊は禅宗には珍しく地蔵菩薩である。胎内に済田〈さいた〉地蔵と呼ばれる小像が収められていた(現在は別置)。
    南宋禅林五山首位の徑山〈きんざん〉万寿寺〈まんじゅじ〉を模して、左右対称の七堂伽藍を配する建長寺は鎌倉五山の象徴である。
    日本最初の臨済禅の専門道として創建され、開山蘭渓道隆の亡き後も、無学祖元〈むがくそげん〉、一山一寧〈いっさんいちねい〉などの宋元の高僧や、中巌円月〈ちゅうがんえんげつ〉、絶海中律〈ぜっかいちゅうしん〉、義堂周信〈ぎどうしゅうしん〉などの五山文学を代表する日本の名僧が次々と住持し、多くの人材を輩出した。
    八百年の歳月をこえ、建長寺には今日でも、総門、三門、仏殿、法堂、方丈(龍王殿)、唐門〈からもん〉、開山堂、禅堂などの大伽藍が建ち並び、開山手植えの柏棋〈びゃくしん〉が今は巨木となって森々と繁り、厳然たる天下禅林の風格をただよわせている。

    開山

    建長寺開山 大覚禅師

    建長寺山大覚禅師・蘭渓道隆(1213~1278)は南宋の西蜀涪州(今の重慶市涪陵区)の生まれである。
    十三歳のときに成都大慈寺で出家したのち、諸方を行脚して蘇州・陽山に至り、臨済宗松源派・尊相禅寺の無明慧性〈むみょうえしょう〉門下で大悟嗣法した。その後南宋禅林の無準師範〈ぶしゅんしばん〉、痴絶道冲〈ちぜつどうちゅう〉、北礀居簡(ほっかんきょかん)などの名僧にも学ぶ。
    1246年三十三歳のとき、日本に禅を弘めようと強い決意のもと宋人弟子数人をともない海を渡る。筑前博多に上陸して博多・円覚寺に滞在したのち、在宋時代の知己である月翁智鏡〈げっとうちきょう〉を訪ねて上京。京都泉涌寺〈せんにゅうじ〉に滞在したが、1248年鎌倉にくだり、寿福寺に入る。同年秋、銀倉幕府第五代執権・北条時頼公(1227〜1263)に請われ常楽禅寺(神奈川県大船粟船山常楽寺)の住持となる。
    1249年、建長寺創建。開基は北条時頼、開山は蘭渓道隆である。
    同時代に南宋から帰国して高邁な『正法眼蔵』を著した曹洞宗の道元禅師に対して、建長寺を拠点にした蘭渓禅師は禅本来の不立文字・教外別伝により平易の説法で禅の普遍化を図った。
    蘭渓禅師最大の功は、南宋禅林の様式による作庭・建築と修行の本格作法を定める禅院清規を整えた純粋禅の専門道場を創設し、多くの修行僧を集め育成したことである。蘭渓親筆の「法語規則」は今日国宝と定められている。
    1262年五十歳のとき、兀庵普寧〈ごったんふねい〉に建長住持を引き継ぎ京都に移住し、建仁寺の住持となる。その後、甲斐・信州・奥州など遍歴して1277年、鎌倉に戻り、寿福寺を経て建長寺に帰住。1278年七月二十四日、西来庵にて示寂、六十六歳。
    異国他郷における三十三年の辛苦と奮闘を遺偈で詠じる。
    「用翳睛術 三十余年 打翻筋斗 地転天旋」
    翳睛術をもちいて三十余年、幾たびもんどりうってきたことか。もうひとつもんどりうって、一気に天地をひっくり返してやろう!
    蘭渓道隆師は印良から中国に渡り禅を弘めた西来祖師・達磨祖師になぞらえられ、鎌倉時代に日本禅宗初祖と尊崇された。
    蘭渓禅師が伝えた臨済禅は鎌倉の地に根をおろし、武士の思想形成や茶の湯の普及などを通じて、広く日本の思想と文化に影響をおよぼしてゆく。
    「大覚神師」の勅号は日本で最初の禅師号である。

    伽藍

    総門

    創建年次未詳だが建治元年(1275)頃とみられる。
    現在のものは昭和15年、京都般舟三昧院より移築された表門である。

    三門

    三門は空・無相・無作の三解脱門の略称で、一般には山門と書く。
    創建年次は建長五年以降まもなくと思われるが未詳。現在のものは「狸和尚」の伝承を生んだ万拙碩誼和尚の努力により安永四年(1775)落成した。
    室町期の禅宗様を踏襲した重層門は威風堂々たる「本山の顔」である。
    その後、昭和29年大修理とともに茅葺を銅葺にして、平成8年二百二十年振りに大修復を行い建立当初の雄姿が蘇った。

    仏殿

    開創のさい、最初につくられた。当初の仏殿は左右に土地堂・祖師堂をしたがえ、殿内には開基時頼の梁碑銘がかかげられていた。
    現在のものは正保四年(1647)、芝増上寺の霊屋を譲り受けたものである。
    本尊地蔵菩薩安置する他、かつて土地堂にまつられていたであろう伽藍神・祖師像それに千体地蔵・伝心平地蔵などを安置している。

    法堂

    仏殿の後ろにあり、大法を説く堂、古代寺院では講堂に当たる。
    現在は千手観音像を安置。
    当初の法堂は建治元年(1275)の創建であるが、現存の法堂は文化十一年(1814)の上棟である。
    平成14年、創建750年記念事業の一環として解体修理完成。

    方丈(龍王殿)

    宝冠釈迦如来像を安置する。
    当初から池に面して建てられている。
    現存の方丈は総門と同じく昭和15年、京都般舟三昧院より移築したものである。

    唐門

    唐門は屋根が唐破風になっている門のことで中国式という意味ではない。仏殿と同じく芝増上寺の霊屋の門を移築したとされる。

    宝物

    開山大覚禅師像(国宝)

    禅宗では正法をうけつぐために絶対的な信頼を師においてきた。その伝法の証明ともされる師の肖像画は頂相と呼ばれ珍重されている。
    この開山像は開山自らが賛をした画像で中国南宋画様式による優れた作例であり、国宝に指定されている。日本の頂相として、この画像は最初期の記念碑的作例であり、美術史的意義も高い。

    開山大覚禅師法語規則(国宝)

    開山大覚禅師の書風は中国南宋の書家である張即之流をうけついでいる。
    法語は、衆僧に対して怠慢放縦をいましめ、参禅弁道に専心すべきことを説き、規則は修行道場における作法などをのべたもので、違反者には罰油を課している。

    梵鐘(国宝)

    三門向かって右手の鐘楼にかけられている。銘文によると、建長七年(1255)開基北条時頼が大檀那となり、開山蘭渓道隆が銘文を撰して、当時関東における鋳物師の物部重光の鋳造である。
    建長寺創建当初の数少ない貴重な遺品の一つであり、国宝に指定されている。

    北条時頼坐像(重要文化財)

    本山の開基で凛とした若き執権北条時頼の狩衣指貫烏帽子姿を活写した鎌倉時代後期の肖像彫刻の優品である。
    寄木造り、玉眼入り、彩色は剥落している。関東大震災のさい大破したが、修復されていまに及んだ。

    大覚禅師経行像(重要文化財)

    歩行中の姿に描かれ、経行像(きんひんぞう)と称している。
    通例とは形式を異にする珍しい頂相である。十四世紀初頭に描かれた秀作であり、遺例の少ない経行像としても注目される。

    三十三観音像(重要文化財)

    十五世紀末頃から十六世紀初頭に活躍した建長寺の画僧賢江祥啓の筆と伝えられており、流麗な筆墨を駆使して描かれた水墨観音図である。現存しているのは三十二幅。観音はくつろいだ姿に示され、岩や松の描写、あるいは衣文線の表現には水墨画的興趣が満ちている。

    交通案内

    所在地

    〒247-8525 神奈川県鎌倉市山ノ内8番地

    アクセス

    JR 横須賀線「北鎌倉駅」、徒歩15分。