各派のご本山

深奥山 方広寺じんのうざん ほうこうじ

    概略・歴史

    臨済宗方広寺派の大本山。静岡県浜松市浜名区引佐町奥山に所在する。
    建徳2年(西暦1371年)、後醍醐天皇の皇子無文元選禅師によって開かれた。
    当地の豪族、奥山六郎次郎朝藤が自分の所領の一部を寄進して堂宇を建立し、無文元選禅師を招いたのである。
    末寺170カ寺を擁し、その大部分は静岡県西部地方に所在する。
    境内に修行道場である方広寺専門道場がある。

    開山

    無文元選禅師

    方広寺を開山する。元亨3年(1323)後醍醐天皇の皇子として京都に生まれる。
    後醍醐天皇が崩御された翌年暦応3年(1340、南朝興国元年)、京都建仁寺において出家し、可翁宗然禅師、雪村友梅禅師について修行する。後に、康永2年(1343、南朝興国4年)、元代の中国に渡って禅の修行をすることを志して、九州博多に行く。当地聖福寺に住職をしておられた無隠元晦禅師に謁して、中国へ渡る意志を告げ、その指示を仰ぐ。やがて、船に乗り、数ヶ月をかけて中国漸江省の温州に着く。福建省の建寧府にある大覚明智寺に古梅正友(こばいしようゆう)禅師を訪ねて参禅修行して大悟する。後に諸方を行脚して天台山方広寺に行く。
    元の至正10年、日本の観応元年(1350、南朝正平5年)、帰国する。京都岩倉に帰休庵を結び、やがて美濃(岐阜県)に了義寺、三河(愛知県)に広沢庵を結ぶ。この広沢庵に遠江(静岡県)奥山の豪族奥山六郎次郎朝藤(ろくろうじろうともふじ)が参禅する。至徳元年(西暦1384年、南朝元中元年)、朝藤は禅師の父後醍醐天皇の追善供養と、禅師の師恩に酬いるために、所有する山林の中から50町余りを寄進して、堂宇を建立して禅師を招く。禅師はその招きに応じて当地に移り、その光景が天台山方広寺に似ていることから、この寺を方広寺と名付ける。
    以来、師の下に、多数の弟子が集まって参禅弁道する。
    康応2年(1390、南朝元中7年)閏3月22日、当寺において遷化(せんげ、亡くなること)する。

    伽藍

    七尊菩薩堂(重要文化財)

    富士浅間大菩薩、春日大明神、伊勢大神宮、稲荷大明神、八幡大菩薩、梅宮大明神、北野天満大自在天神の七神を合祀する鎮守堂で、応永8年(1401)に建立された。
    間口3尺、奥行き5尺の大きさで、鎌倉時代の柿葺流造(こけらぶきながれづくり)の建築様式を伝える。

    奥山半僧坊大権現

    開山無文元選禅師が中国から帰る途上、台風に遭遇して船が難破する危険が生じたとき、一異人が船に姿を現して、「開山禅師が正法を日本に伝え広めるために、必ず無事に日本にお送りします」といって、船頭を導き水夫を励まして日本に帰国させたといわれる。
    また無文元選禅師が奥山六郎次郎朝藤に招かれて方広寺に到着したとき、再び現れて、禅師の弟子となることを願い出て許され、禅師の身辺に仕えて、修行したといわれる。
    その姿が僧のようであって、完全な僧の姿をしておらなかったので、禅師から「半(なか)ば僧にあって僧にあらず」といわれ、「半僧坊」と名付けられたといわれる。
    禅師が遷化された後は、「方広寺を護持し、民に利益を与えよう」と言って、姿を隠したと伝えられる。
    以来、利益を求める善男善女の信仰をいただいて今日に至る。
    毎年10月17日前の日曜日に大祭が執り行われる。

    五百羅漢

    拙巌和尚が大蔵経のなかから「大羅漢が現在して仏法を護持する」という記述を見つけ、また開山無文元選禅師が中国天台山において石橋にお茶を献じられたとき、羅漢が身を現したという故事にちなんで、五百体の羅漢像を造って安置することを発願して、宝暦年中に始まり、明和7年(1770)完成した。
    方広寺境内に広く安置され、谷に掛けられた石橋の上に安置された羅漢像は方広寺第―の景観をなしている。

    交通案内

    所在地

    〒431-2224 静岡県浜松市北区引佐町奥山1577-1

    アクセス

    JR浜松駅からバス45番線に乗車、約60分「奥山」バス停下車。
    東名浜松西インター、あるいは三ケ日インターから車で30分。