法 話

柳不緑花不紅
書き下ろし

京都府 ・大泉寺住職  桐野祥陽

 2月になりましたが、まだまだ寒い日が続き、春を待ちわびておられる方も多いのではないでしょうか。
 先月、あるお寺様にお邪魔させて頂いた時、「柳緑花紅」(柳は緑、花は紅)という禅語の書かれた軸が掛かっておりました。この語は、見ての通り自然の美しい情景を表わし、「春」を連想させる語です。真冬のこの時期に何故春の語を掛けておられるのか不思議に思い、その理由を尋ねてみました。すると、和尚様は、「わしは寒いのが苦手でのぉ、早く春が来んかと願いを込めてこの掛け軸を敢えて掛けておるんじゃ」とおっしゃいました。
 この時ふと、学生の頃、この禅語をテーマとした法話のテストがあり、大変に苦心したことを思い出しました。当時、色々と調べた結果、「ありのままの自然の妙景にこそ悟りの境地がある」というところまでは辿り着いたのですが、どう考えてもその境地に繋がる自分の体験談が出てこないのです。
 禅宗坊主の卵として、皆様の為に何か良いお話ができないか、そんな体験談がないか、と必死に考えました。しかし、全く浮かんできません。悩みに悩んでいると、どんどん自分の到らなさが情けなくてどうしようもなくなってしまいました。
 困り果てた私は、ふと知り合いの和尚さんにこの事について相談してみました。すると、「体験談がないことは悪いことでも悲しいことでもない。大事なのは、自分のそういう到らなさに気付いて、しっかりと情けない自分を見つめてやる事だ。そうやってしっかりと悩めるところが尊いことなんだ。その悩んでいるところを法話にすれば良い」と教えて頂きました。私はこれを聞いてハッとしたのを今でも鮮明に覚えています。
 当時の私は、「柳は緑、花は紅」そのままに、人生生きていれば色々と辛いことや悲しいことがあって悩み苦しむけれど、何とかそれを見ないようにして、素晴らしくて美しい部分、つまり楽しいことや幸せなことばかりを追い求めていました。そして、そういう中にこそ素晴らしい世界や悟りがあるのだと思っていました。
 しかし、それは全く逆で、人は悩み苦しむそれ自体が尊い事であり、そこにこそ人の命の輝きがあるのだということに気付いたのです。

myoshin1602a.jpg 皆さんも少し自分に立ち返って見て下さい。この原稿に向き合っておられる方々の中で、私は一切の悩みや苦しみがない、病気も老いも死ぬことさえも何も恐れてはいない、今までの人生もこれからの人生も一点の悔いもなく過ごせるんだ、という方がどれほどおられるでしょうか。
 恐らく皆様それぞれに色々なことについて悩み苦しみ、不安を抱き後悔を重ねていらっしゃる事と拝察致します。かく言う私もそうです。しかし、人は皆そうやって悩み苦しむけれど、「まぁしゃーない」と言ってその苦しみをしっかり背負って、苦しいなりに生きていけることが尊いことなのです。
 よくよく考えてみれば、一年を通して柳が緑で花が紅である期間なんてほんの数日の事です。それ以外はずっと柳は緑でなく花も紅でありません。我々の人生も一緒ですね。人生の春と思える時間など、悲しいかな人生全体から見ればほんの一瞬なのです。悩み苦しみながら「まぁしゃーない」と言って生きている時間の方が圧倒的に長いのです。ここの処を「柳緑花紅」を踏まえて言い表わすとするならば、「柳不緑花不紅」(柳は緑ならず、花は紅ならず)といったところになりますね。

 今回「柳緑花紅」という禅語を通じ、確かにありのままの自然の妙景も素晴らしいけれど、「柳不緑花不紅」として、色々なことに思い悩む情けない自分にもキラリと輝く瞬間があるんだ、という事を少しでも心にとめて頂ければ嬉しく思います。冒頭でご紹介した和尚様の「願い」にも実はこういうところが含まれており、真冬にこそ相応しい禅語と言えるのかもしれませんね。そう思って玄関をくぐれば、いつもの世界がまたキラリと輝いて見えるのではないでしょうか。