銀碗裡に雪を盛る
(出典:書き下ろし)
朝晩が肌寒くなり始め、京都のあちらこちらの軒先に掛けられた提灯の淡いあかりに、どこかの神社でお祭りが奉納されることを知らされた頃、妙心寺の塔頭では「梵燈のあかり」が催されていた。
所狭しと並べられた蝋燭の炎に浮かび上がった枯山水は、長押にかけられた行燈のあかりと空の星も相まって異次元なものに演出されていた。ここを訪れた人はみな無口で、風に揺らぐ蝋燭のあかりに視点を忘れたように、ただジッと目を落とすばかりであった。
あの和紙のぬくもりや、蝋燭の放つ陰翳に揺れる枯山水と、多色刷りだった秋の風景をなつかしむ冬の朝、見飽きたはずの景色を真っ白に輝かせて雪が舞い降りた。
銀椀裡に雪を盛る
銀の椀に雪を盛る。『碧巌録』十三則にある巴陵顥鑑の言葉である。銀の椀に雪を盛れば、陽の光を受けて両者の見分けがつかなくなってしまったと嘆く。どこまでが銀椀でどこからが雪か。『般若心経』で言うところの「色即是空」の世界がここに繰り広げられた。
個々の存在を主張する「色即是色」の銀椀と雪は、陽の光に当てられてキラキラ一体となって、もはや見分けがつかない、つけれない。顥鑑は不二一如の仏の世界をここに看た。
しかし、見分けがつかないと雖も、銀椀は銀椀に変わりはないし雪には変われない。雪は雪に変わりはないし銀椀には変われない。「色即是空」と一度は仏の世界に浸かり切った両者が「空即是色」と再び二元の世界に舞い戻ってきた。それでも「色即是色」の風景とはまるで違う深みが、そこには漂う。
「色即是空」と上求菩提の行きっぱなしではつまらない。「空即是色」と下化衆生と再び帰ってきたところに、釈尊の雪をも溶かす暖かみを知らされる。
屋根も白い。木々も白い。退屈な風景につくため息も白い。色即是色。色即是空、空即是色。昨日と同じ風景の中に閑かな奥行きが醸し出される。