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あとみよそわか

(出典:書き下ろし)

 妙心寺派宗務本所での仕事の為、京都に単身赴任しているわたしが気にすることは、小学生になる子どもたちがどんな毎日を送っているのかということです。電話で話したり、家内からのメールなどでその生活ぶりを知ることはできますが、やはりこの目で見るのが一番です。帰宅するとまっさきに目に飛び込んでくるのが玄関の靴です。きちんと揃えられているか、野球のスパイクは汚れていないか。そして子ども部屋の机の上やマンガや新幹線の本が並べられた本棚。勉強の本よりマンガ本が多いことが気になりますが、一巻~九巻までが、順番どおり並んでいたりするのをみると、なんとなくホッとさせられます。
 禅語に「看脚下」という言葉があります。
 ある夜、五祖法演禅師が、三人の弟子たちと夜道を寺へと帰る途中、突然の風のために手にしていた灯火が消えてしまったのです。そのとき、法演禅師が「一転語を示してみよ」と弟子たちに問いかけました。「夜道を行くには、灯火が何よりも頼りとなる。しかし、それがいま消えてしまった。さあ、お前さんたちはどうするのか」と。
 三人の弟子の中で圜悟禅師の「看脚下」という返答が、法演禅師の心に適いました。それは「足もとを看ます」というごく平凡な言葉です。暗闇で頼りとなる灯火が消えたら……そうです、足もとによく注意することが何より大切なことだと圜悟禅師は答えました。しかし、今の暗闇は、私たちの人生そのものです。その暗闇でもし、頼りとなる支えを失ったら、あなたはどうするかという、法演禅師の問いかけに「足もとを看ます」と、謙虚に自分の行
ないの一つ一つに責任を持ちますと、圜悟禅師は応えたのです。
 小説家、幸田露伴は娘の文(あや)が十四歳のとき、家事雑用の生活全般を躾けることを宣言しました。文が十七、八歳になるまでの間、実に細かく、それは、はたきのかけ方から雑巾のかけ方、箒のつかい方、台所仕事までおよぶ徹底的なものでした。掃き掃除ひとつとっても、箒の持ちよう、使いよう、畳の目や縁、動作の遅速と露伴自身も、息つく暇もない細やかさでした。
露伴は「梯子も一段一段上がらなくちゃならない。二段も三段もまたぐことは無理なことだ」と、先ずは掃き掃除をしっかりと身につけさせることにしたのです。この父の熱心な指導は、子どもにとっては大変なことでしたが、それでも、「ありがとうございました」と素直に頭を下げる文でした。掃除を終えると露伴は「あとみよそわか」と唱え、「もういいと思っても、もう一度よく、呪文を唱えて見なおしてみるんだ」と躾けます。
 露伴が文に言った「あとみよ」は決して「あとを見て、もう一度確認せよ」と文に向かって言った言葉だけではなく、それはあくまでも自分自身の行
ないに対して責任を最後まで全うするよう露伴が自分自身に向けて言いきかせた謙虚な言葉でもあったのです。
 靴を脱いだらそろえる。ご飯を頂いたらご飯粒一つでも残さないなど、日常の些細なことであっても最後までその責任を全うする生き方の積み重ねが一寸先は闇の人生を確実に生きることにつながるのではないでしょうか。

 「あとみよそわか あとみよそわか」

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