遊び
(出典:書き下ろし)
時々「趣味は何ですか?」と尋ねられることがあります。だいたい無難なところで「読書ですかね」とか、「お茶を時々」と返しています。
趣味とは専門と違う方面での楽しみとか娯楽をいうのでしょうが、遊びという意味合いもあろうかと思います。『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』に「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動(ゆる)がるれ」の一文があります。「遊ぶために生まれて来たのだろうか、戯れるために生まれて来たのだろうか、遊んでいる子どもの声を聞いていると、感動のために私の身さえも動いてしまう」との内容です。
遊びはやはり子どもが似合います。大人の遊びになるといろいろな意味合いが生じてきてしまいます。専門的になったり、あやしい(?)感じがしたりして。子どもの遊びは『梁塵秘抄』にいうように周りのものが感動させられたり、気づかさせられたり、心に響くものがあるように思います。子どもの感性、いうならば童心(わらべごころ)の自由自在さがそうさせるのでしょう。
布団乾燥機でふわふわになった布団に寝ころび、
「あー あったかい ご飯の上の梅干しの気持ちがわかるよ」
シャボン玉遊びをしていて、
「シャボン玉は 夢がいっぱいだね」
雲一つない青空を見上げ、
「今日は あたらしい 空だね」
(いずれも『あのね・子どものつぶやき』朝日新聞出版編)
などの童心はよくわかります。「我が身さえこそ動(ゆる)がるれ」の童心です。前述の『梁塵秘抄』を引き、北原白秋は次のように言います。
・・・・・・子供は遊ぶ。遊んで遊んで遊び惚(ほ)れる。子供が遊ぶ時には身も魂(たま)も遊びにうちこんで了(しま)ふ。・・・・・・心から遊び惚れてゐる子供を見てゐると、そこにはたゞ遊びそのものばかりしか見えない。そこには遊ぶ子供のいのちばかりが光物(ひかりもの)のやうに燃えあがるのみである。遊びの形なぞは目に入(い)らない。全く見てゐるひとの心までがうちゆらいでくる。・・・・・・ さうなると遊びも尊い。三昧とはこの遊びの妙境(みょうきょう)に澄み入ることである。 私心(わたくしごころ)を去るがよい、真(しん)に童のやうになってほれぼれとあそびほれたがよい。(『洗心雑話』)
辞書には、仏のように自由自在な境地を「遊戯三昧(ゆげざんまい)」というとありますが、童心をして学べばより身近な言葉になります。年末忙しい時期ではありますが、私心を去り、童心で楽しく一年を終えたいと思います。そして今度「趣味は何ですか?」と尋ねられたら「遊びです」と答えようと思います。