あたりまえ
(出典:書き下ろし)
江戸時代文化文政の頃、筑前の国、現在の博多聖福寺に仙厓と言われる和尚さんが住職しておられました。ある年のお正月、黒田藩の役人が聖福寺に年始に参り、仙厓に「何かおめでたいことを書いて下さい」とお願いします。仙厓は「よしよし」と、すぐさま筆をとりますと、なんと「親死ぬ、子死ぬ、孫死ぬ」と書かれたのです。役人は顔をしかめて、「めでたいことをとお願いしたのに、これは何事ぞ。親死ぬ、子死ぬ、孫死ぬなど、縁起でもない」と怒り出します。すると仙厓は「そうかのう、孫死して子に先立たず、子死して親に先立たず、家に若死にが無いほどめでたいことがこの世にあるのかのう」と言われました。それを聞いた役人は、なるほどと充分にその意味を理解し、「その通り、これほどめでたいことはない」と喜んでその書を頂いて帰ったという逸話があります。
私達は普段本当にめでたい有り難いことを見落として毎日を過ごしてはいないでしょうか。仙厓はこの語を通して特別めでたいことなど言わなくとも、私達の身近にはめでたいことが存分にあるのだ、あたりまえのことこそが実は有り難いのだと教えて下さっているのではないでしょうか。今朝も目が覚めたことが有り難い、歩いていることが有り難い、話していることが有り難いのです。私達はこの有り難いことをついつい「そんなことあたりまえ」の一言でかたづけていませんでしょうか。あたりまえのことにじっくりと目を向けてみると、私達はすでに満ち溢れた毎日を生かされているということが必ず解るはずです。
“有り難い”とは、難しいことが有るということです。難しいことが有るからこそ大いにめでたいのです。
今、日本は東日本大震災という大きな地震、そして津波、福島原発の放射能漏れと何重もの災害で多くの犠牲者を出し、そして被災された方々は大変不自由な毎日を送っておられます。ご冥福を祈り、またお見舞い申し上げると共に普段あたりまえだと思っていたことは決してあたりまえのことではなく、実は特別なことであったのだと痛感させられました。私達は毎日特別なことをさせて頂いているということを忘れてはならないのです。身近なあたりまえが実は特別なことで、これほど有り難いことはないと思えてこそ人間は幸福であるのです。