法 話

常日頃にて気づくこと
書き下ろし

東京都 ・金龍寺住職  並木泰淳

 myo_2210b_link.jpg三年前の十月中旬の秋風が心地よい夜のことです。小学校での初めての運動会にてリレーで活躍した長女の話で持ちきりの夕食の後、当時生後七ヶ月の次女が私にも何か食べさせてとせがみました。
 彼女の好物の野菜が練り込まれている煎餅を食べさせようと抱きかかえて膝に乗せたところ、ふと家内が今日買ってきたウエハースを初めて食べさせてみようと言い出しました。口に含んでふやかして粉まみれになりながら一生懸命食べている娘を愛おしく眺めていると、眠くなってウエハースだらけの手で顔をかきむしり始めました。そう思っていたのも束の間、顔がみるみる赤くなっていきます。あせもができやすく皮膚が弱いと思うことがあったので、慌ててかきむしる手を抑えて洗面所で洗い流しましたが、四〜五分経つと大きな発疹ができ始めました。尋常ではないと感じて、慌てて家内に話し、家族で病院の救急外来に向かいました。それまで食べさせていたせんべいは米粉製品でしたが、ウエハースは小麦粉でできていたことに気づきました。車の中や病院の受付をしながら不安ばかりが頭に浮かびます。このまま大きな発作が起きたらどうしようか、藁にもすがるような気持ちで診察室の前で待っていました。次女を抱きしめながら、ごめんねごめんねとつぶやく家内も同じ気持ちだったと思います。
 ようやく名前を呼ばれ、診察を受ける時には顔面の凹凸は治りつつありました。診察を受けて、運動会の応援で疲れていた時に初めての小麦粉を食べたので、軽いショックを起こしたでしょう、もう大丈夫とのことでした。御礼を申し上げて、ふと思い出したことがありました。
 私が四歳のとき、生後三ヶ月の弟が真夜中に意識不明になりました。両親は弟を抱いて寺の中を走り回って救急車を呼び、私は師父から山門を開けてくるように言いつけられました。大人用の雪駄を履いて、一心不乱に真っ暗な境内を走って力を込めて山門を開けると、門前の居酒屋からの酔客と目が合って怖くて逃げ帰ったことを思い出します。私の両親も同じような経験をして、自分はどうなっても良いからこの子だけは守りたいと一心に願ったことだろうと思いました。薬の調剤を待つ間、寒くて娘たちが肌を寄せてくるのを気だるい身体で受け止めながら、両親の人生と私の人生と娘たちの人生が繋がって、大きな生命の流れのなかで生かされていることに頭だけでなく身体で気づきました。

『人天眼目』の巻之六に、

運水搬柴は塵にあらず、頭頭全く法王身を現す。

と出てまいります。
 水を運び薪を運ぶという日常底そのものが仏の所作であって、日々繰り返すうちに迷いが消えて、森羅万象すべてに仏の身が現れていることに気づくことができるという意です。自分というものに固執する迷いが消えて、先祖や今を生きる周りの生命との繋がりに気づき、子孫の平穏無事を願う親心にて連綿と繋がってきた生命の只中で生かされていることを感じた涼やかな夜のことでした。