法 話

清らかな風
書き下ろし

岐阜県 ・通源寺住職  福田宗伸

 myo_2304a_link.jpg四月になり、新たな生活がスタートする方も多いかと思います。春の心地好い風の中を期待半分不安半分で新天地に向かわれたのではないでしょうか。

 この頃になると思い出すのが、私が修行のために専門道場へ掛搭(かとう)(入門のこと)を願った日のことです。正式な修行僧(雲水(うんすい))となるためには、いくつかの関門を越えなければなりません。最初の関門は「庭詰(にわづ)め」といい、日中ずっと玄関先で頭を下げて入門を乞うのです。
 夕方には「もう外も暗くなりこのまま帰すのも気の毒だから、一晩泊めてあげますよ」ということで、お客さんとしてお寺に上げてもらい、夕食もいただけるのですが、ここで私は大失敗をしでかしました。
 その日は気温も低く、しかも陽の当たらない玄関にずっといた上、極度の緊張と動くことのできない姿勢であったことから、まるで私の身体は芯まで冷え切ったコンクリートのようでした。そうした状況で提供された夕食を胃がまるで受けつけようとしません。それでも無理やり詰め込んだ結果、それはもう盛大に嘔吐してしまったのです。目の前の赤椀の中はもちろん、飯台や敷いていたござの上にも、まだまだ藍で真っ青な私の雲水衣にも吐しゃ物が散らばる。あまりの惨状を前に、私は汚れた口を押え、せめてもうこれ以上汚さないようにと吐き気を堪えることしかできませんでした。
 そんな中、食事を用意してくれた先輩雲水は汚れをものともせず、さっと赤椀を下げ、散らばった汚物を素手のまま片づけていきます。そしていつの間にか手にしていた濡れタオルを私に手渡し、顔や衣を拭うように促したのでした。その手際の見事さにあっけにとられたことを覚えています。

 禅の言葉に

歩歩(ほほ)清風(せいふう)起(お)こる

という語があります。その一挙手一投足に見る者が清々しさを感じる、無心の働きを表す言葉です。この時目にした先輩雲水の動きはまさしく清風を起こすものでありました。これが、私が禅に直に触れた最初の体験であり、修行の原点となったのです。大変申し訳ないことではありましたが、この出来事がなければ今日の禅僧としての私はないのかもしれません。
 慣れない環境では思いもしない失敗をしてしまうこともあります。大切なことは失敗から気づきを得ること。その失敗を活かすことができれば、無駄にはなりません。どうぞ失敗したとしてもくじけず、新生活をお送りください。一所懸命な姿はきっと見る人を爽やかな気持ちにすることでしょう。