法 話

整形疑惑
書き下ろし

愛媛県 ・福成寺住職  新山玄宗

 myo_2306b_link.jpg「新山さん目を整形されたんですか?」。コロナ禍でずっとリモートでの会議参加でしたが、少し落ち着いてきたようなので久し振りの対面で会議に参加したときのできごとです。
 「この年になって整形はしないでしょう」
 「いや~新山さんと言ったら、度のきついグリグリメガネをかけて目がちっこくて一重まぶた、というイメージだったのですが。なんか目は大きいし二重まぶたになっているし...」
 「私の目はもともと大きいし二重まぶたですよ。奥二重ですけど。これは二月に緑内障と白内障の手術をしまして。その時に曇りを取って眼内レンズを入れたから視力が0.2になったんですよ。今まで0.02の世界だったから。メガネ屋さん曰く、レンズの厚さが今までの十分の一になっていますよ、とのこと。それと曇りを取ったら世界が変わりました。世の中がなんときれいに見えることか! 余計な汚れやゴミまで見えるようになってしまいましたけど」
 もともとあった大きな目は、積もり積もった曇りと分厚いレンズによって、本来の姿が見えなくなっていたわけです。それに加えて人さまへの印象をも変えてしまっていたのです。
 
 私たちは生まれながらに「仏心」という「仏さま」になれる種を持っています。では「仏心」を持って「仏さま」になった人とはどういう人なのでしょうか。
 わかりやすく申しますと、困っている人がいたらサッと手を差し伸べて助けてあげられる人のことを言います。こう申しますとたいていの方は「私ら困っている人がいたら助けないことはない」と思うはずです。ですがちょっと待ってください。頭の中で「今、仕事の途中だから仕事が終わったら助けてあげよう」とか「以前あの人に助けてもらったから今度は私が助けてあげよう」とか何か考えてから助けてはいないでしょうか。そうではなく、何も考えずサッと手を差し伸べられる人のことを「仏さま」と言うのです。ですがこのありがたい種、「仏心」は嘘偽りや思いめぐらす心によって曇らされてしまい、本来の姿が隠れてしまっています。何とかしてこの曇りを除きたいのですが、残念ながら完全に払いのけて「仏さま」になることは容易ではありません。

 そこで「仏心」の曇りを払うためには、「幸せになるための三つの熏習(くんじゅう)」があります。熏とは匂いが染み込むこと。習とは繰り返ししているうちに身につくことです。それは「掃除」(人の見えない所をきれいにする)「看経(かんきん)」(学ぶ)「坐禅」(大きく呼吸をする)といった、禅寺における大事な日々の"つとめ"すなわち「行(ぎょう)」のことです。「行」を続けることによってその都度「曇らせてはならない」という気持ちに立ち返ることができます。完全に払いのけることのできない曇りですが、それでも「行」を怠らないことが大切であり、それが日々の私たちの"つとめ"と言えるでしょう。

 整形とは「形をととのえて正しくすること」と書きます。「曇らせてはならない」という気持ちを持(たも)ち続け「行」ずることによって、曇りを除いてこそ私の本来の目が現れたように、「仏心」もまた形をととのえて正しい姿を現せられるようになりたいものです。