法 話

「しか」と「も」
書き下ろし

兵庫県 ・常楽寺副住職  小川太龍

myo_1912b_link.jpg 夕焼け小焼けで日が暮れて~♪
 私が住んでいる地域では、冬期は夕方5時に子供の帰宅を促すメロディーが公民館から流れます。数年前、午後4時半過ぎに近所の子供たちがお寺に遊びに来ました。5時まであと少し、そこで私が、「あと20分しか遊べないよ」と言うと、「ちがうよ、あと20分も遊べるよ!」と、子供たちは答えるではありませんか。同じ「あと20分」でも、「しか」と「も」では全く違います。私にとっては不充分でも、子供たちには充分だったのです。
 「それは、大人と子供の時間感覚が違うから......」などと、それらしい説明もできるでしょう。はたしてそれだけでしょうか?
 宗祖、臨済禅師の師である黄檗希運禅師は、説法の中で時間について次のように言います。

 一瞬一瞬、何ものにも囚われず、過去、現在、未来について相手にせぬことだ(時時、念念一切の相を見ず、前後三際を認むること莫かれ)

(『伝心法要』)

 黄檗禅師は、「時間なんか忘れて、好き勝手に生きろ!」と言っているわけではありません。私たちは生活するにあたり、色々な尺度を使っています。時間で言えば多くの国では、本来カタチのない時間を一日24時間、一年365日という枠にはめ込んで使っています。生活するにあたり、共通の尺度があった方が便利です。しかし、私たちは日々、「時間がない」と言って、時間に追われ仕事をし、遊び、生きていないでしょうか。生活を便利にするための尺度であったはずの時間に、追われ囚われ縛られてしまうのです。これは、時間だけのことではありません。もちろん、自主的に自分を追い込むことによって効率よく物事が運ぶ場合もあります。しかし、様々なことに追われ、がんじがらめで息苦しいと感じることはありませんか。
 黄檗禅師は先の語の前に、次のようにも言っています。

 オレがオレがという拘りなく、一日なすべきことをしながら、しかも何ものにも惑わされない、それこそが「自在の人」だ(......人我等の相無く、終日一切の事を離れずして、諸の境に惑せられざるを、方に自在人と名づく)

(『伝心法要』)

 囚われ惑わされることなく、なすべきことをする。「それは理想であって、すべきことがあり過ぎて時間がないのが現実だ」と仰るかも知れません。しかし、すべきことが山積みでも、心までも追い立てられ縛られる必要はないはずです。お寺に遊びに来た子供たちも、黄檗禅師が言うような境地に常にあるわけではないでしょう。しかし少なくとも、「20分では何もできない」という囚われに惑わされていた私に比べ、「20分もあれば色々できる!」と考えたあの時の子供たちは、主体的に時間を使う「自在の人」に近かったのではないでしょうか。
 12月に入りました。残すところ「あと数日しかない」のか「あと数日もある」のか、皆様はどちらでしょうか?