法 話

立春は一瞬
書き下ろし

京都府 ・金剛寺住職  伊達義典

myo_2102a_link.jpg 私の勤務先に「恵方巻」の営業が来ました。2月2日に配達してくれるそうです。「立春は4日だから、節分は3日だろう」。私はそう思って、帰宅後、国立天文台のホームページで確認しました。「2月3日23時59分」、私の思い込みでした。兼職の忙しさのため「心を亡くして」いたようです。
 さて、ここで気になったのが、「23時59分」という表現です。
 「立春は一日あるのでは?」。調べてみますと、天文学で「立春」とは、「太陽黄経(こうけい)が315度に達した時」だそうです。要するに、一日でなく一瞬なのですね。『法句経』というお経の、「やがて死すべきものの いま生命(いのち)あるはありがたし」が思い浮かびました。

 ところで、「やがて」というと、私もそうですが、「そのうち」と思ってしまいます。「今日明日は大丈夫。平均寿命くらいまで。百歳以上も8万人超えたし」などと、自分の脳で勝手に解釈してしまいます。でも保証はありません。
 私は、師であり父でもある前の住職を、一瞬で亡くしています。私は勤務中で目撃はしておりませんが、体調が悪いので病院へ行こうと境内を歩いているとき、突然倒れてそれきりだったそうです。父にとって「やがて」は「突然」でした。
 『四十二章経』というお経の中の「人の命は、一呼吸の間である」という教えが思い浮かびます。息を吐いて(呼)、吸う(吸)ことはできても、次はわからない。50歳代後半の私は、一体、これを何回繰り返してきたのでしょう。しかも、この原稿を書いている間も一瞬一瞬、時は過ぎ戻ってこない。極端に申しますと、確実に、死に向かって生きているわけです。
 だからこそ、この一呼吸、もっと言うと一呼吸の間の一瞬一瞬が「有難い」わけです。坐禅でも呼吸を大事にしますが、実に理にかなったことだと改めて感じられます。
 寒がりの私は、「立春といってても、寒いじゃないか」と、文句の一つも言いたくなります。しかし、今年は、立春とは一瞬であることを肝に銘じ、心静かに眠りにつきたく思います。