法 話

母の日に
書き下ろし

愛媛県 ・三寳寺住職  福山宗徳

 myo_2105b_link.jpg山々が緑一色に輝いています。五月晴れに映える木々の力強い生命力、南風が爽やかに感じられます。
 この時期、禅の修行道場では衣替え。冬衣から夏衣へと装いが変わります。そんな中、手巾(しゅきん)と呼ばれる分厚い紐だけは一年を通して腰に巻かれています。

 手巾を腰に巻く意味を、修行中に先輩に教わったことがあります。
 例えば御祝いごとがあれば、金銭を封に包んで中心に紅白の水引を巻きます。修行僧の手巾も水引と同じ。自分そのものを相手に捧げる証として、あの大きな手巾を巻くのだと......。
 
 そういえば5月といえば母の日。手巾の意味にも通じる、谷川俊太郎さんの詩があります。

「自分を贈る」
母の日に 花を贈るのを忘れてもいい
母の日には あなた自身を贈ればいい
あなたが誕生した日
母はあなたに世界を贈ってくれた
この世界のどこかでずっと
母はあなたとともに生きている
たとえいま母と不和でも 卑下することはない
あなたはあなたを生きている
母の日には花も言葉もなくていい
これまでもこれからも あなた自身が
かけがえのない贈り物なのだから

 勇気を与えられる言葉です。けれど私は、この世界を与えてくれた母に対して随分迷惑をかけてきました。かけがえのない贈り物どころか、反省することばかりです。そんな思い出のなかで忘れられない光景があります。

 小学生の頃、その日は朝から大雨が降り続いていました。登校の準備が遅れて学校に遅れそうになった私は、焦りながら傘を探したのですが見つかりません。
 母は居間から玄関に駆けつけて、昨日買ったばかりの黄色い傘にマジックで名前を書こうとしていました。「遅れるから名前なんて書かなくてもいいよっ」と激しく捲りたてると、母は慌てながらも「ふくやま」と書き入れました。
 おそらく1~2秒ほどの時間でした。当然のように殴り書きで名前が書かれた傘。「こんな字、恥ずかしいやろっ」と罵声をあげながら家を飛び出しました。
 大雨に打たれ、傘に書かれた名前はぼやけて何を書いたのかも分からないような始末でした。
 学校には間に合って一安心したものの、急に母の寂しそうな顔が浮かび、傘をたたみながら初めて気がついたことがあります。
 「滲んだ文字は母の涙なんじゃないか」。「汚れた字は自分の心の姿じゃないか」。申し訳のない気持ちが沸いて悲しくなった一日を、不思議と忘れられずにいます。
 新品の傘はいきなり汚れてしまいましたが、その傘をずっと大切に使った思い出が蘇ります。

 母という存在は、慈悲なる眼差しで子供を見守ってくれています。けれども、その優しさに気づくのは、もしかしたら母を悲しませたときなのかも知れません。だからこそ本当に大切なものは、花でもなく言葉でもなく、くじけながらも今を懸命に生きるあなた自身なのではないでしょうか。
 緑一色の山々のように、力強く生きる姿は、遠く離れた場所からでも輝いて目に入ります。
 腰に手巾を巻いて、今年こそは母に感謝の気持ちを伝えてみたいと思います。