法 話

やるべきことはなに?
書き下ろし

愛媛県 ・観音寺住職  山崎忠司

 myo_2110b_link.jpg夏の厳しさも終わり秋風が心地よい季節になりました。

 厳しい修行道場で、できの悪い私が耐えられたのは、先輩から言われた言葉があったからです。
 坐禅が苦手な私は、認められようと作務を人一倍頑張りました。そんなとき指導者から「一作務・二看誦・三坐禅」の言葉をいただきました。私は褒められたような気になり頑張れたのです。
 住職となり山寺での毎日は竹箒を持つだけで、それほどに仕事に追われるようなことはありません。ある日、書籍を読んでいると「好雪片々別処に落ちず」の禅の教えが目に止まりました。薬山禅師を訪ねた龐居士が寺を辞するとき、ひらひらと落ちてくる雪に感動しての言葉でした。そこで門送に付いてきた禅客の一人が「別処とは...」と突っ込んだのです。すると龐居士は頬を張りました。
 私たちは観念に引っかかって全体が見えなくなってしまうことがあります。ありのままに看て心を働かせる。そこに禅の教えはあるのです。

 山寺では落ち葉が多い季節になってきています。風に吹かれひらひらと落ちてくる落ち葉に、作務こそ大切だと箒をとり、終わりなき仕事に務めていました。参道を掃き終えた帰り道、今掃除したところに落ちないでくれ!という思いのほかに、ヒラヒラと舞う落ち葉が美しく見えたのです。夏の暑さに耐えた木々が落ち葉で季節を表現していました。
 しかし、掃除をさぼった次の日、風に集められた落ち葉を汚いなと思ったことに反省しました。なにも落ち葉に変わりはなく、人が来ないからいいやとサボった心の汚れ、境内や参道に落ちなければいいやと落処を選り好みしていたことが、落ち葉に好悪をつけていたのではないかと...。
 それからは日課としての作務に、「落葉片々別処に落ちず」と落ち葉を見ながら箒をとっています。春の除草、夏の水やり、秋の落ち葉と向き合い、雪の少ない地域での降雪には雪見酒だと、自然を楽しめる自分でありたいのです。

 道場での戒め「一作務・二看誦・三坐禅」の作務はなすべき事をなす、目の前のことを務める。そこにはお経を読むときは一心に、苦手な坐禅も一心に、目の前の仕事を一心に務める。それが先輩から私への戒めだったことが納得されたのです。
 不自由なコロナ禍ですが、自分にできる感染対策を務めていく、そこに新しい生活が生まれるのです。

 相田みつをさんは「感動とは感じて動くと書くんだなあ」と作品に残します。これに「感動したときには動けない」と批評している人がいました。動くという言葉に囚われています。心が動いているから動けないのです。色々な事をありのままに見る、そんな当たり前のことを忘れないようにしたいものです。