法 話

足もとを照らす
書き下ろし

島根県 ・鹿苑寺住職  森山隆司

 myo_2112b_link.jpg早いもので今年も師走を迎えました。昨年から続く新型コロナウイルス感染拡大による様々な弊害は言うまでもありませんが、地球温暖化が原因と思われる自然災害も頻発しました。年々穏やかな一年だったと振り返ることが少なくなりつつあります。このような事態は決して他人事ではなく、自らの心を調える機会が少なくなってきた日々の中で、バランスを欠いた人類に対しての警鐘と受け止めることも大切ではないでしょうか。

 禅寺の玄関に入ると、履物をそろえることを促す意味で禅語の「看脚下(かんきゃっか)」が掲げられていることがあります。
 中国、臨済宗中興の祖といわれている五祖法演(ごそほうえん)禅師には三人の高弟がいました。ある晩、三人とともに寺に帰る途中、提灯の火が突然消えて暗闇になってしまいました。すると法演禅師は、即座に三人の弟子の対し、「この場に臨んで各自仏法に適う境地を一句で述べてみよ」と問いました。周囲を照らす頼りになる灯火が消えてしまった今、お前たちはどうするのかというのです。三人の一人、圜悟克勤(えんごこくごん)は、「看脚下」と答えました。暗くなったら「足もとをよく見なさい」というあたりまえの一句に、法演禅師は 「私の仏法は克勤に奪い去られる」とほめたたえたそうです。

 禅や仏教の教えは特別なことではなく、闇の中で頼りとなる灯火が消えたら足もとによく注意するといった、誰にでもできることを実践するための教えなのです。玄関で履物をそろえることも、自分にとって肝心なことは足もとにあることを示していて、その足もとは自分の心に他なりません。心を乱したまま調えることを怠れば、どんなに素晴らしい理想や夢を抱いても、暗闇の中で右往左往するように、一層、迷いや悩みを深めることになってしまうのです。

 私が住職を務めている寺の先々代住職(祖父)が生前、初めて地方に布教に出かける私に対し、「看脚下」と自分で書いた朱扇を差し出してくれたことがあります。そして「自分が法縁に生かされていることを忘れたら、人様に法を説くことなどできないぞ」と話してくれました。今秋、規模を縮小して祖父の法要を厳修した際、その事を思い出し、未熟ながら今の自分があるのも祖父の「看脚下」の教えがあるおかげと感謝の念を深めました。

 混迷を深めつつある現代、自分の力で工夫して前に突き進むことも大事なことではありますが、新たな一歩を踏み出す時こそ、今、生かされている縁に感謝し、自分にとっての命のもとは何かを深く見つめ、手を合わせることも繰り返し実践しなければなりません。一人一人の日々の積み重ねが自分の人生ばかりか、一年を明るく照らし導く輝きにもつながることになるのです。