法 話

無位の真人
書き下ろし

愛媛県 ・城願寺住職  五葉光鐵

 myo_2204a_link.jpg城願寺の建物が新しくなり早いもので三十五年が経ちました。当時、工務店の勧めで庫裡(寺の住居スペース)の廊下に集成材を採用しました。工務店の方が「集成材は小さな木材を組み合わせて、強力な接着剤を貼り合わせているので、品質にばらつきがなく無垢材より長持ちします。これからは集成材の時代ですよ」と言って薦めて下さったのです。
 しかし、うちのわんぱく坊主四人が毎日廊下をドタドタと元気いっぱいに走り続けた結果、そのうちに床がギシギシときしみ始め、「あれぇ、何だかへこんで来たなあ」と思っていたら、バリバリという音を立てて抜け落ちてしまいました。頑丈な集成材を使った床でしたが、わずか十年ほどで無残にも破壊されてしまったのです。
 その時に、床を無垢板に貼り替えて下さった大工さんは「和尚さん、やっぱり自然のままが一番ということですかなあ」としみじみ言っていたのが今だに心に残っております。
 それから二十年以上が経ちますが無垢板の床はびくともしません。無垢材の品質のばらつきをなくすために小さな木材を組み合わせ、強固に接着した集成材は一見頑丈そうな感じがしますが、実際は皮肉にも特別なことは何もしていない無垢の木材の方がはるかに強かったのでした。
 もしかすると私たち人間の身も心も集成材のようにいろんな合成樹脂や新建材を使い、かえってもろくひ弱になっているのではないでしょうか?
 私ども臨済宗の宗祖、臨済禅師の言葉に「無位の真人」というものがあります。地位や肩書き、学歴にとらわれたり見栄を張る心、そういったものを捨て去ったところに、自然のままで、本当に強い自分、ずばり言うと仏さまがいらっしゃるのだという教え。つまり地位や名誉といった合成樹脂を取り去ったところに、自然のままで世俗に振り回されることのない本当に強い自分というものがあるのだという意味です。
 ですから私たちも、変なプライドとか地位や肩書きの衣を脱いで、自分の内なる仏さまをしっかりと自覚し、肩肘を張ることなくゆったりとした気分で生きて行くことができれば、それに勝る生き方はないと思います。
 その無位の真人に目覚めるためには、やはり日頃からの仏道修行が不可欠になってまいります。声に出して無心にお経を読む。一心に仏の名前を念じる。坐禅を組む。今、この場所から私事を挟まずただ淡々とやってみる。
 最初はなかなかうまくいかないかも知れませんが、あきらめずに続けて行けば、必ずや無位の真人で生きているのだということに気づきます。皆様方の地道なご精進が、やがて大輪の花を開かせるものと信じております。