私たちは、たった一個の「いのち」で一回限りの人生を日々歩んでいます。その人生の時間をどう使おうと自由ですが、同じ使うなら「いのち」が喜ぶような使い方をしてあげたいものです。 「いのち」が喜ぶとは、すなわち「凡事徹底」(当たり前のことを当たり前にやる)ですが、毎日のテレビ報道を視聴すると、当たり前でないことを平気でやっている悲しい出来事が、なんと多いことでしょうか。 長野県立こども病院に入院していた宮越由貴奈さんの詩をご紹介します。
「命」 命はとても大切だ 人間が生きるための電池みたいだ でも電池はいつかは切れる 命もいつかはなくなる 電池はすぐにとりかえられるけど 命はそう簡単にはとりかえられない 何年も何年も 月日がたってやっと 神様から与えられるものだ 命がないと、人間は生きられない でも 「命なんかいらない。」 と言って 命をむだにする人もいる まだたくさん命がつかえるのに そんな人を見ると悲しくなる 命は休むことなく働いているのに だから私は命が疲れたというまで せいいっぱい生きよう
この詩は残念ながら由貴奈さんの遺作となってしまったのです。亡くなったのは11歳でした。 その当時の学級担当の先生は「『いのち』を思い、治療に耐えていく子。子どもなりに自分の『いのち』について考えています。つらく苦しい治療に耐えていく姿は純真なかわいい修行僧ともいうことができるように思います」と言っておられます。 そして、この由貴奈さんは自分も重い病気でありながら、周りを明るくし、赤ちゃんのおむつを換えてあげ、泣いている友だちをなぐさめ、決して頼まれたわけでもないのに、当たり前にやってあげていたのでした。 自分の悲しみは、そっと、誰もいないところで一人泣いて、はらしていたそうです。 一番、身近な人たちにできるだけのことをしようという、いま私たちが一番忘れていることを教えてくれたような気がします。 このお盆の月にご先祖さまと一緒に、ご自分の「いのち」を静かに見つめ、この「いのち」をどう活かしていったらいいのか。どのように使えば「いのち」は喜んでくれるのかを考えてみてはいかがでしょうか。 |