法 話

臨済禅師のこころシリーズ〔4〕
「恩を知って恩を報ずる」
書き下ろし

神奈川県 ・正福寺住職  松原行樹

 お正月を迎えたと思っていたら、早くも2ヵ月が過ぎました。今年はこんな1年にしようと目標を掲げられた方も多いかと思います。
 今年は臨済宗の宗祖である臨済義玄禅師の1150年遠諱を迎えます。この遠諱を迎えるにあたって、私は今年の目標を「報恩」と掲げましたが、年始からの慌ただしい生活を理由にして、結局何もできないまま2ヵ月が過ぎてしまいました。

rengo1603a.jpg 臨済禅師の語録に、「恩を知って方(まさ)に恩を報ずることを解(げ)す」とあります。私たちは互いに関係して成り立ち、また互いによりあって存在しておりますので、一人で生きていくことはできません。誰かのお世話にならなければならない以上、そこに恩というものが生じます。臨済禅師はこの恩を知ることが、そのまま恩を報ずることであるとおっしゃっています。では恩を知って恩を報ずるということはどういうことなのでしょうか。

 詩人の高田敏子さんは若い頃、孤独感から自殺を図ろうとしました。その時のことをこう述懐します。

お風呂に入って身体を清め、肌着も下着も全部取り替えて、そして最後の化粧をするために鏡に向かいました。フッと気がつくと、この間切ったばかりの髪の毛がもう伸びている。爪が伸びている。私の心は死のうと思っているのに、髪の毛が伸び、爪が伸びて、私の身体を寒さや外敵から守ろうとしてくれている。その髪や爪は私が作ったのでも、買ったものでもない。父の、母の、そしてまた先祖の願いが髪の毛となり、爪となって私を守っていてくれるんだということを感じ、あらためて鏡の中に映る自分の顔を見て、ああ、よかったと思いました。


 そもそも私たちの身体、髪、皮膚、ありとあらゆるものは、両親をはじめ、遠いご先祖から連綿と受け継がれてきたものです。髪の毛一本、爪一枚、自分のものではありません。さらに、起きているときだけではなく、寝ているときも呼吸し、心臓は動き、そして体温を保ってくれています。自分の父の願いが、母の願いが、いやご先祖の願いが、互いに寄り合って自分の中に宿っているのです。

 死のうと思ったけれど、鏡の前に向かうと、自分の都合に留まることのない、今こうしていのちあること、生きて生かされているというありのままの様子が映った。そして生きている人だけでなく、目に見えない亡くなった方も含めて、多くの恩をいただいて生きているということにお気づきになったのでしょう。

 高田さんはその後、一つ年上の少女に見せられた少女向けの文芸誌をきっかけに詩や短歌を書き始め、74才で亡くなるまで詩作を続けました。

 あの自殺を図った出来事によって、ご両親とご先祖の恩を知ることができた。そしてその心をそのままに、多くの優れた作品を残されたのではないでしょうか。自分が救われることによって、周りをも救うことができるのだ。まさに自分の都合から離れて恩を知ることで、自ずと恩を報ずることができたのです。

 関わり合いの中で私たちは目に見える人やものから、目に見えないそれらにいたるまで、多くの恩をいただいています。いまここに自分がいることに、いったいどれだけ多くの方々が関わってくれたことでしょう。

 目標のある無しにかかわらず、慌ただしい生活を理由にすることもなく、自分の都合に留まることのない生活をしていきます。その心で、いまここ自分が周りの力によって生かされて生きているというありのままの様子を知り得たとき、自ずと周りをも生かしている、そんな生き方をしていきたいものです。