法 話

偉大なる自分
書き下ろし

東京都 ・廣濟寺住職  渡邊宗禅

 私たちは、自分自身の真実の姿にほとんど気がついていません。たとえば、たった今、自分が呼吸をしているのは、自分が頑張ってそうしているからなのでしょうか。心臓が動いているのは、自分が動かそうと思ったからでしょうか。そんなことはないはずです。ただ、心臓は、黙々と自分の役割を果たしてくれています。何故なのでしょうか。
 自分の考えや思いを超えたところの自分が、そうさせているのです。自分には、自分が普段思っている自分を遥かに超えた自分があります。自分が思っているより、それは遥かに崇高で偉大な自分です。けれども私たちは、自分のことをあまりにもちっぽけで、取るに足らないどうでもいい存在だと思っていたりするのです。私たちは自分の本当の偉大さというものを忘れてしまっています。自分の偉大さとは、いったい何だったのでしょうか。
rengo1701a.jpg 偉大さとは、「永遠で、不滅なるいのち」です。それは、お釈迦様が教えてくださった「いのちの真実」です。生まれて、老いてゆき、やがて病となり、死に至る。そう思い込んでいた私たちの「いのち」が、生きる、死ぬなどと分けることなどできない、完全で何の制限もない「偉大なるいのち」だということ。大宇宙と同じ「いのち」を自分が生きているということ。
 だから、自分が偉大でなかった瞬間は、片時もありません。自分がどんなに大きな失態を犯した時も。自分がどんなに意地悪な行ないをしてしまった時も。自分がどんなに深い悲しみのどん底に落ち込んだ時も。自分はつねに偉大であり続けていました。
 「偉大ないのち」がこの自分を通して、人生を経験しています。どんな経験にも、そこには必ず何かしらの意味があります。目的もあるはずです。「偉大な自分」が、何かを知るために、何かを習得するために、この人生を経験しているのです。
 私たちは誰しも、できれば困難な人生ではなく、平穏な毎日を望んでいることでしょう。出来るだけ何事もないようにと、そう思ってはいないでしょうか。でも、そう思うのは、実は私たちが自分の偉大さから遠く離れてしまっているからです。
 何事もない人生を、「偉大ないのち」が望むでしょうか。「偉大な自分」は、何をしにこの世界にやって来たのでしょうか。退屈しにやって来たのでしょうか。そんなはずはない。
 私たちは「偉大ないのち」としての自分が、自分自身の偉大さを発揮したいからこそ、今、ここに生きているのです。それなのに、私たちが自分の可能性に飛び込み、挑戦し、経験しないのなら、たとえ自分がつねに偉大であったとしても、その偉大さを発揮することはないでしょう。
 今、自分はどんな人生を選んでいるでしょうか。自分の「偉大ないのち」の望みを本当に理解して生きているだろうか。自分の偉大さを引き受けるという、その決断が出来ているだろうか。
 本当の自分は「どこまでも偉大な自分」なのです。だから、力がある。勇気がある。優しさがある。何もかも、すべて持っている。
 さあ、あとはそれを使うだけです。「偉大なる自分」としての今を、精一杯に生きていきましょう。