法 話

寂室禅師のこころシリーズ〔5〕
「友人を憶う」
(『寂室元光禅師の風光』〔村上宗博 平成22年 自費出版〕より加筆して転載)

福井県 ・円照寺住職  村上宗博

rengo1709a.jpg 寂室禅師の生涯を見ますと、京都や鎌倉の大きなお寺の住職にお呼びがかかっても拒み続け、山中にひっそりと住んで坐禅に明け暮れました。言ってみれば大学教授の任を蹴って、山間僻地に診療所を開いたようなものです。そうしてめったに診療所を空けなかったのです。山奥でわずかの人たちを診療するかたわら、時には近くの山に登って静寂を楽しみ、ある時は小川のせせらぎに我が身を濯(そそ)がれました。禅師は何を求めていたのでしょうか。禅師をそこまでさせたものはいったい何だったのでしょうか。

 禅師は常に修行僧にこう示されました。「生死まさに切なるべし」と。「今日一日きりの命であるぞ」とのご垂戒(すいかい)なのです。
 寂室禅師の詩の中でも「友人を憶う」という題の詩は、とりわけ隠逸の趣が深いものです。


  山院 春深くして 客来たらず
  空庭 花落ちて 蒼苔(そうたい)を没す
  流景を留めんと欲すれども 策なきをおそれ
  猶お佳人をまちて 念未だつきず
  身は老いてもっとも宜し 世外に居るに
  雲は閑にしてただまさに 巌隈(がんわい)に臥すべし
  午眠 一たび覚む 茶三椀
  千峰を望断し 闥(たつ)※を推し開く
                      ※闥...小さな門

〈現代語訳〉

春も半ばを過ぎた山中の風光は言い尽くせない趣に満ちている。真実を求める道人(客)が今来てくれるならば、まことに結構なことであるのに、その気配はない。
燃えるが如く鮮やかに咲いていた花はすでに散って一面の苔を覆っている。
緑が日ごとに深まるこの光景を留めておくことはできず、やはり早くこの時期に君に来て欲しいものだ
私は歳老いた。世俗の外に住んでいるのにはもってこいだ。
のびやかな雲は巌のあたりにこそ漂うべきであるように昼のうたた寝から覚めてお茶をごくりと飲む。
外を眺めると幾重にも重なる山並みが果てしなく広がる。さても君が来ないものかと庭先に出て木戸を開けて門外に出てみた。

 禅師にしても人が恋しい。ことさらに世俗を避けて山中深き庵で我が身を修めながらも、やはり友と話がしたいのです。五合庵に住んでいた良寛禅師が、淋しくなると里に下りて子供たちと遊んだことを思い浮かべます。隠者が人を慕うとは矛盾するのではないかと言われそうですが、知音(ちいん)同士だからこそ話があるのです。世を捨てても後生を案ずるが故に詩を詠み書簡を道友に与えるのです。