移ろいゆく心
(出典:書き下ろし)
梅雨です。紫陽花がとても綺麗に咲いています。雨の日などは特に鮮やかに見えます。色とりどりに咲く様は時に移ろいゆく人の心にも例えられ、花言葉は 「移り気」といいます。紫陽花の色は土壌のpH(酸性度)によって色が変わるそうで、同様に人の心も環境によって変化します。どちらもあるがままでとどま ることがありません。
室町時代の禅僧、一休宗純禅師(1394~1481)は、移ろいゆく心の真理を端的に示しています。
いずれの時か夢のうちにあらざる
いずれの人か骸骨にあらざるべし (『一休骸骨』)
人生はことごとく夢まぼろしである。私達の体も、ひと皮むけば骸骨でしかない。
人生の真理を「骸骨」で表現し、どんなに着飾ってみても、ただひと時夢に酔って浮かれているにすぎない。心の本質は、あるがままでとどまることがないということです。
臨済宗の修行道場では、夏は麻衣、冬は藍染めの綿衣を着て修行をします。衣は長年着ていると色褪せてきます。衣の色が浅ければ浅いほど修行年数が長いということです。
僧堂に入りたての頃、濃紺の衣を着ていた私は先輩方の着る色褪せた衣に憧れていました。浅はかにも、無駄に洗濯を重ね色を落とそうとしたことさえあります。そんな衣を身にまとい、ハクがついたと満足していました。
ところがある日、修行歴の長い先輩が、突然真新しい衣を着るようになりました。それを見た私はとても驚き、まるで新入りみたいだと思いました。
真意をお聞きするとその先輩は「あまりにも古くなったので、新しい衣に替えたのだよ」と答えられました。その先輩には色褪せた衣に執着する心は全くなかったのです。
自分が本当に憧れるべきものは、色褪せた衣ではなく、先輩のとらわれない修行姿そのものなのだと痛感させられました。
恰好よく見えた色あせた衣。骸骨が被る皮。それらは一つの物でしかありません。本当に大切なのは真摯に修行する心であり、着飾ったり驕ったりせず、日々を 大切に過ごす事なのです。植えられる場所を選べない紫陽花とは違って、我々は己の環境を自分で変えることができるのです。
鎌倉建長寺内の西来庵開山堂(拝観不可)には、ご開山蘭渓道隆禅師(大覚禅師)の示寂後間もない頃に作られた尊像があります。その飾らない姿は禅僧そのもので、今でも私達を厳しく見守ってくださっています。
本年(平成25年)建長寺は、開基北条時頼公の750年遠諱を迎え、来年(平成26年)には、開山蘭渓道隆禅師の生誕800年を迎えます。その遺徳を偲びお参りいただければ幸いです。